色鮮やかな、花の絨毯。 駆け抜ける風。 青く澄み渡る空。 真白に流れる雲。 真白な民族衣装を風にたなびかせ、長い黒髪の少女が一人。 年の頃なら十と五つか六つ。 黒髪には真赤な花を挿している。 颯爽と駆け抜ける風を背に、長い黒髪と、真白な民族衣装がたなびく。 少女の目の前には同じ年頃の少年。 若草色の髪を風に揺らし、視線はただ黒髪の少女だけを捉えている。 風に逆らうように走り寄ろうとするが、思うように足が進まない。 やがて少年は何かを叫ぶが、それは風に飲み込まれてしまう。 ただ、風の音が響く草原。 少年は必死に力を振り絞り手を、小指を伸ばした。 少年の小指に微かに感じる、絡む少女の小指の感触。 その一瞬、少年は黒髪の少女に一際近づいたかと思うと、無言の囁きを感じた。 次の瞬間、少年は今までのどの風よりも強い追い風を背に感じる。 すると、目の前の少女はその風に乗って消えてしまうのだった。 「ターニャ!!」 若草色の髪の青年は大声で叫びながら、ベッドから飛び起きた。精悍とは言いがたい、あどけなさを残すその顔には、うっすらと寝汗が浮かび、肩で息をしていた。 彼の名はトムス。雪山に囲まれた『春の草原』の騎馬民族の若者である。 彼の一族は、年に何度か街に足を運び、街のバザーで獣の肉や毛皮、骨や角などの加工品を売って、生活をしている。そして、翌朝のバザーに備えての就寝中に、トムスは目を覚ましたのだった。 トムスの叫び声で、一緒に街に出てきていた、隣のベッドの青年も目を覚ましたようだ。 「ったくぁ〜ふ。まぁたターニャの夢かァ?」 この色黒で筋肉質、赤毛の青年はバルナ。トムスの無二の親友で、夢に出てきたターニャの兄である。バルナは眠くてしょうがないといった感じで頭をかきむしり、大きなアクビを一つして続けた。 「お前の気持ちは分かるけどな、ターニャはもう死んだんだぜ?日が昇るまでまだ時間はある。しっかり寝とけよ」 バルナは言いながら、トムスの背を向けるように布団にうずくまった。トムスも横になり、深く布団を被った。 「分かってるさ…」 その日は快晴で、バザーは予定通りの早朝から開催された。港町であるご当地名物の鮮魚などの海鮮物や、海を渡ってやってきた異国の品、果ては旅の戦利品を並べる露店が所狭しと並んでいる。店を出している者も人間をはじめ、エルフなどの亜人種や、精霊たちも軒を並べるほどの盛況振りである。その一角に、りきゅあも自作の武器を並べていたのである。 「いらっしゃいませ〜♪HAPPY★POINTへようこそ♪ どれでも一律、銀貨十枚!良い買い物してきなよゥ★」 手書きの看板に、ありきたりの一通りの武器類は全て手作りで、りきゅあ作の証である『★彡』の銘が入っている。りきゅあは訳あって、堕天使の鍛冶師に育てられた為、この手の作業には少し精通しているのだった。とは言え、天使の作業なので他の鍛冶師の作業とは少し違う。源となる物質からイメージすると言う、聖族の製法を師より受け継いでいたのだ。この話は、いずれ詳しくすることにしよう。 それから銀貨十枚と言う価格は、平民の一日の生活費と考えて欲しい。ちなみに貨幣価値は、金貨一枚は銀貨二十枚に、さらに銅貨にすれば四十枚といった具合だ。日常的には銀貨が一番使われている。 通常、武器は金貨で取り引きを行うため、銀貨十枚と言うのは、ほぼ捨て値に近い。まあ、りきゅあの場合は元手が掛からない分、いくらでも安くは出来るのではあるが。 りきゅあが大声を張り上げ始めた頃、ちょうど隣に店を出す者が来たようだ。そこの現れたのは、大量の毛皮と、肉、小物を引っさげた、赤毛と若草色の髪の青年たちだった。 てきぱきと店支度を始めた若草髪の青年をよそに、赤毛の青年はHAPPY★POINTの店先から一振りの刀を手に取ると、何度かひっくり返しながら、じっくり眺めた。そして、刀越しにりきゅあに声を掛けた。 「これ、君が作ったの?」 「もち♪なかなか良い感じでしょ?」 本日一番目の客にりきゅあは大喜びだった。弦担ぎではないが、最初に手に取った客が買うかどうかで、その日一日の売れ行きをかけていた。赤毛の青年は好感触で、期待が持てた。 こっれが売れれば、今日は一日大もうけ〜♪ と、心で小躍りするりきゅあを改めて見つめた赤毛の青年は、じっとりきゅあを見詰めた。 ぇうぇう?な、な、な、なんでしょう?!どぎまぎ! とびきりの笑顔のまま、内心不安になっていたりきゅあに、赤毛の彼の言葉は驚きをもたらした。 「君、可愛いね。惚れた!」 は、はぁ?! 一瞬何が起こったか分からなかったりきゅあだったが、赤毛の青年は勝手にまくし立て、落ち着くまでの時間をくれた。 「なかなか面白いデザインじゃん。この銘も可愛いし♪少し刀芯がずれてる感じも、オリジナリティって感じでグー!」 赤毛の青年は親指を突き立てた。ようやくりきゅあは現状を把握した。 …褒めてくれてるってことは、買ってくれるんだよね? 「でっしょ〜★ゼッタイ他じゃお目にかかれないよ!おにぃさんカッコいいから、今日なら銀貨二十枚のところ、十枚に負けちゃう!どうよ!?買おうよ!ネ、買っちゃおウ!彡(>ゥ<)/」 押せ押せのりきゅあに、まんざらでもない、といった様子の赤毛の青年だったが、若草髪の青年の一言が勢いにブレーキを掛けた。 「バルナ、いつまでも油売ってないで手伝ってよ。僕らはまず売らないと。もう路銀は尽きてるんだからさ」 「えー!お金ないのぉ?!」 りきゅあは勢いで口を滑らせ、バルナと呼ばれた赤毛の青年は、突き立てた親指をそっと引っ込めて、申し訳なさそうに笑っている。 「にははははは!参ったね、コリャ!それじゃァ…」 そう言ってバルナは若草髪の青年が並べた商品の中から、一つのペンダントを取り出した。七色に光る不思議なペンダントだ。 「コレ!これと交換でどうかな?万年雪の下でしか生えない、玉虫草の種なんだ。結構見つけるの大変なんだぜ」 自慢げ見せるバルナと、食いつくりきゅあ。 「わあ〜!きれー!!ウン!交渉成立!!」 りきゅあの声と共に、バルナはりきゅあの首にそれを掛けた。ちょうど瞳くらいの大きさの七色に輝く種は、朝日を浴びてりきゅあの胸元を煌かせていた。 「どう?どう?にあう?にあう?」 大ハシャギのりきゅあに、同レベルのハイテンションでバルナは褒めちぎっていた。そのわきで若草髪の青年はコボす。 「あーあ、金貨五枚で売りに出すのに、勝手なことして!」 バルナはお構いなしといった感じで、聞き流す。 「細かいこというなって!今日は一日顔つき合わせる、可愛いお隣さんじゃんか!」 そこまで言うと、いったん若草髪の青年に、めっちゃ俺の好みなんだよ!と耳打ちし、りきゅあに向き直って続ける。 「俺はバルナ、でコイツがトムス。俺たち、『春の草原』から来たんだ!君は?」 りきゅあは簡単に自己紹介をすると、彼らと意気投合するのに時間は掛からなかった。 バルナは積極的にりきゅあにアタックし、りきゅあは面白にーちゃんレベルであしらい続け、それとは対照的に、トムスは真面目に接客し、時には、はしゃいでるりきゅあの代わりに、武器の販売までもしていた。 そうしているうちに太陽は赤みを帯び、バザーも終わりの時間を迎えた。トムスの貢献のお陰で、両方の店は共に完売することが出来た。 「これも俺の努力と、りきゅあの愛嬌のお陰だな!」 「バルはな〜んにもしてなかったジャン!」 豪快に笑うバルナに、りきゅあはすかさず突っ込む。この一日は、三人を和ませるには、長すぎたのかもしれない。 その夜、三人は簡単な打ち上げをし、労を癒した。今後、行く当てのないりきゅあは、青年らの『春の草原』の話を聞いて、次の目的地をそこに決めた。 「『春の草原』かァ…楽しみッ★」 翌朝早く、りきゅあと『春の草原』の二人の青年は、港町を発った。 『春の草原』までの道のりは短いものではなかったが、危険なものでもなかった。バザーの港町から北へ馬を進めること一週間。名もなき森を抜け、山脈の麓からさらに二日間ほど昇り、『水晶の滝』と呼ばれる解ける事のない氷の滝の洞を抜ける。すると、それまでの極寒の世界とはうってかわって、花の咲き乱れる常春の景色が旅人を向かえるのだ。 万年雪の山脈に囲まれた盆地の草原で、馬で一日も走れば周れてしまうほどの広さである。しかし、そんな環境にも関わらず、常春の気温を保ち、四季がなく、一年中何かしらの花を咲かせていた。生活に害を成す動物もなく、穏やかな空気に包まれて暮らしているのである。 りきゅあたちは名もなき森を抜け、極寒の山脈に備え、山麓での野宿の準備をしていた。りきゅあは集めた小枝に火を点け、二人の青年は簡易テントを張っていた。長めの枝で、満遍なく火が点くようにと火掻きをしながら、りきゅあが訊ねた。 「ねー、この山の向こうに『春の草原』があるの?てっぺんの方、真白じゃん?」 しゃがんだまま、大きく見上げるりきゅあの隣に、テントを張り終えたバルナが腰を降ろす。 「ああ、この山の向こうが俺らの故郷、『春の草原』さ!」 「騎馬民族だってのに、結構長く住み着いちゃってる。とても居心地のいい場所だよ」 トムスは笑いながら、大きく炎を上げ始めた焚火をはさんで、りきゅあたちの反対側に腰を降ろした。 緩やかに隆起する山の裾と、まばらに生える木々。山と森との境に、小さなテントと、それを紅く染める焚火が揺らめいている。焚火を中心にりきゅあとバルナの二人にトムスが向かい合うように腰を降ろし、腰を降ろしたままでトムスが体を伸ばし、テントから食料の入った小袋を引きずり出す。中の干し肉を配りながら、トムスが続けた。 「僕らのお爺さんの代だって言ってたかな、ここに始めてたどり着いたのは。いろいろと草原を渡り歩いては追い出されて、辿り着いたんだって」 言いながら、トムスはアゴで山の向こう、『春の草原』を指した。受け取った干し肉をひとくち頬張り、バルナが続ける。 「あまりに住み易くって、俺らの代は放浪生活なんてしたことねーよ。騎馬民族だってのに、名前だけだ。たまに草原で乗馬の稽古をしているだけさ。頑固な長老達が全滅したら、農耕民族にでもなるかも知れないな」 言い終えてまたひとくち。 ここに着くまでの間、りきゅあは一方的に話しまくっていた。りきゅあの冒険生活、放浪生活に感化されたのか、街での行商だけが唯一の冒険という生活に抱いていた不満が爆発したようだ。 「俺もりきゅあみたいに自由に旅してぇなぁ!」 言いながらまたひとくち。そして、バルナは急に真面目な顔でりきゅあを見つめた。 「りきゅあ、俺と果て無き愛の旅へ出ないか?」 しかし、当のりきゅあは大笑い。涙を浮かべての大笑いである。 「きゃはははは!!!んもぅ、干し肉頬張ったままでマジな顔しないでヨ!」 愛の冒険への誘いも見事に笑い飛ばされ、その夜は更けて行った。りきゅあはテントの中で、二人の青年はテントの入り口を塞ぐ様に背を合わせて寝息を立てた。 色鮮やかな、花の絨毯。 駆け抜ける風。 青く澄み渡る空。 真白に流れる雲。 真白な民族衣装を風にたなびかせ、長い黒髪の少女が一人。 颯爽と駆け抜ける風を背に、長い黒髪と、真白な民族衣装がたなびく。 眩いばかりの陽光を背に受け、少女の顔は長い黒髪と同じ様に、深い黒。 風に揺れる黒髪。 表情の見えない黒。 微笑む少女。 唇が動くが何も聞こえない。 ただ、風の音が響く草原。 一際強く吹いた風に何かが弾ける。 まるで朝の柔らかな陽光を受けた朝露のように、淡い七色が風に舞った。 七色に輝く風が収まると、少女の姿は消えているのだった。 「…ター…ニャ…?」 目を覚ましたのはトムスだった。 すでに夜の暗さは朝日に追いやられ、小鳥のさえずりと、草木の朝露が朝のすがすがしさを匂わせていた。隣を見るとバルナは地面に横になって寝ていた。トムスはその場で立ち上がり大きく伸びをした。木々の葉や、草花で輝く朝露に、どうしても夢で見た光景が思い出される。 「ターニャさン〜って、だ〜あれっかにゃン★」 のんきな声に振り向くと、テントの出入り口から、りきゅあが首だけ飛び出させていた。トムスは一瞬驚いたが、それほど大きなリアクションは取らなかった。 「やぁ、おはよう、りきゅあさん。よく眠れた?」 丁寧で優しい喋り方で、少し童顔のトムスは、ぱっと見、女性とも見紛えてしまう。 りきゅあは短く、うん♪、と答え、同じ質問を繰り返した。 「ターニャさン〜って、だ・あ・れっ★」 当然答えは分かっていると言った感じのりきゅあは、満面の笑みで、期待する答えが返ってくるのを待っている。トムスは戸惑いの表情を見せたが、搾り出すように答えた。 「ば、…バルナの妹、だよ」 そう言ったトムスの表情には少し照れがあり、寂しさがあった。りきゅあはテントから首だけ出したままで、じっとトムスを見つめる。そして一言。 「ふぅ〜ん…それだけ?」 言うと、りきゅあはにやりと笑った。 戸惑うトムスは、それだけって?、と返すが、りきゅあは期待の返答を待ち望んでいる顔をする。 「俺の可愛い妹を寝取ったんだよぉう!」 「違ぁう!!」 叫びながら飛び起きるバルナに、トムスは瞬速の突っ込み鉄拳を食らわしていた。 突っこみ鉄拳の直撃を受けて、目覚めに鼻血を携え、のけぞっているバルナに、りきゅあは何事もなかったように朝の挨拶を交わした。 アハハ、なんか、こーゆー空気すき★ トムスは興奮を抑えるように、口調を落とす。 「…彼女…だった」 言いながらトムスは腰を降ろし、のけぞっていたままのバルナは姿勢を正した。相変わらず首だけのりきゅあは好奇心だけで言葉を進めた。 「だった?」 りきゅあの質問にトムスの言葉は詰まった。その問いに答えたのはバルナだった。 「死んじまったのさ。流行病でね。もぅ…何年前だ?五年?十年?」 「八年前だよ、バカ兄貴…。妹の命日くらい覚えておけよ」 寂しげなトムス。真顔で、鼻血が唇に到達したバルナ。 あちゃー、悪いこと聞いちゃったな… バルナは立ち上がり、鼻血を拭きながら言う。 「バカだなァ!兄貴の出来が悪いからこそ、あんな出来た妹に育ったんじゃねーか!ちったァ感謝しろ!」 バルナは言いながら笑い、トムスにも笑みが戻った。そして、りきゅあも自然に笑っていた。 やっぱりいいなぁ、こーゆーの★ りきゅあは、二人の青年の笑顔にそう思うのだった。 それは八年前、若き日のトムスとバルナ、そしてターニャと長老の婆様の四人が、『春の草原』での成人の儀として、初行商に出た時のことだった。 この成人の儀を終えれば、トムスとターニャは、晴れて結婚と言う段取りになっていた。 しかし、偶然立寄った村では致死性の高い病が流行していて、その村を避け、近くの水場で野宿をする羽目になった。その時にターニャが水浴びをした水場が、運の悪いことに流行り病で苦しんだ村人が医者を求めて彷徨った挙句に、行き倒れた場所だったのだ。汚染されていた水によりたちまちターニャは感染し、同行していた二人の少年にはなす術もなく、その短い生涯を閉じたのだった。 小さく開けた森の懐。そこは静かに流れる小川のほとり。大人二人ほどの高さの小さな滝があり、その滝壷は水浴びをするのに、ちょうど良い深さと広さだった。 素肌に薄衣をまとい、水浴びをする少女。濡れた少女の黒髪は艶やかな色香を増し、白い背中に張り付いている。とたんに少女は片膝をつき、大きな水音に身を沈めた。 バッシャーン!! 「!…ターニャ?」 若草色の髪の少年が水音を聞きつけ、小川に走る。そして、それに赤毛の少年も続いた。 「ターニャ!!」 少年達の目に映ったのは、小川で婆様に抱えられた、薄衣のターニャの姿だった。薄衣に透ける少女の肌には、大小様々な、無数の黒い斑点が浮かんでいた。驚愕の表情で、少年たちは婆様に尋ねた。 「黒死病じゃ、この水場の水はすでに汚されておる。決して近寄る出ないぞ!この病に罹っては、生きること叶わんのじゃ…。わしが何とかこの娘を岸まで運ぶ。わしらが息絶えたら、燃やしておくれ。そして、灰を『春の草原』に撒いておくれ…」 突然の光景に行動の自由を奪われていた少年達であったが、婆様の言葉で呪縛が解けたかのように動き出した。トムスは小川に向かって走り出し、バルナはトムスに飛び掛った。 「止めるなァ、バルナ!ターニャが、ターニャが!!」 バルナ少年には、半狂乱のトムスを取り押さえることが精一杯だった。二人の視線の先には、ターニャを小川から引きずりあげる婆様の姿だけが映っていた。力なく引きずられるターニャ、死力を振り絞る婆様…どちらの素肌にも、痣のような黒い斑点が見る見るうちに増えていった。 ただ、愛しい恋人の名を繰り返し叫ぶトムス。そして、必死に押さえ込むバルナが叫ぶ。 「トムス!しっかりしろ!俺らまで死んだら、誰が『春の草原』に物資を運ぶんだよ!それに婆様の言った言葉、聞いただろ!?」 叫ぶバルナの声も、わめくトムスの声も涙に濡れて、震えていた。たとえ少女と言えど、老婆の力で水場から引きずり出すのは至難の業だった。何度か手を滑らせては、見ていることしか出来ない少年たちをやきもきさせた。しかし、時間がかかったことがかえって良かった。老婆が少女を岸に引きずり上げた頃には、少年たちはある程度の平静を取り戻すことが出来たのである。 婆様は全力尽き果てたと言う感じで、腰から崩れ落ち、少女の隣に仰向けになった。そして、見下ろす少年たちに言った。 「お前たち…お前たちは今日、この日に大人になるんじゃ。子供の甘えは捨てる…良いね」 婆様はしょぼしょぼと目を閉じ、続ける。 「ちゃんとわしらを火葬にして、故郷の風に帰しておくれ…」 消え入るように老婆は最後の言葉を繋げ、数回無言で口を動かし、つぐんだ。ターニャは二度と意識を取り戻すことはなかった。 その晩、トムスは一睡もせずターニャの死顔を見つめ続け、バルナは火葬する為の薪木を集めた。 翌朝、ついに二人は帰らぬ人となった。 バルナは集めた薪木を彼女らの遺体に乗せ、火葬の準備を進めていった。二人の顔が見えるように、薪木を積み終わると、トムスに目配せした。少年二人は、顔中に黒い斑点が散らばる彼女らと、決別しようとしていた。バルナは松明に火を点け、トムスに目をやる。 「俺は覚悟を決めたよ。ターニャのためにも、婆様のためにも、役目を果たそうって…今なら、お前がターニャと死ぬことを選んだって、止めやしない…トムス、泣きつくならコレが最後だぜ」 バルナは無理に笑顔を作って、トムスに吹っかけた。しかし、今となってはそれも必要ないことだった。 「大人になるんだ!もう泣かないさ…」 そう言ってトムスは、バルナの手から松明を取り上げると、静かに薪木の中に押し込んだ。 「…君だけを愛している」 トムスの言葉に応えるかのように、赤く燃え上がる炎はぼうっと音を上げ、薪木の間から顔を覗かせる少女を飲み込んだ。 その後、どれだけの間か分からないほど燃やし続け、二人は遺灰と共に帰郷し、常春の風に帰したのだった。 三人はテントの前で、炎を囲んで笑っていた。しかしトムスは、急に真剣な顔つきで話し出した。 「…だけど、僕がターニャに触れようとすると…消えちゃうんだよ」 トムスは言いながら、目の前の空間をつかもうとして手を伸ばし、手の先のものが消える仕草をした。りきゅあとバルナは顔を見合わせ、赤い炎の揺らめきの向こうに見えるトムスに目をやった。トムスは力なくうつむいていたが、すぐに明るく振舞った。 りきゅあはなんとも納得のいかない様子で、クセのブリッコ思考ポーズを取る。目線は斜め上に四十五度、耳は伏せ気味で、脇を締めて左手で右肘を支え、右手の人差し指だけを立てて、手の甲を外側に、軽く下唇を抑えるのである。 しばらく考えると、閃いたとばかりに耳をぴょこんと立てた。 「ひょっとして、ユメマクラニタツ…って奴じゃないの?きっとトムに伝えたいことがあるんだよ!」 困惑表情のトムス。こんな時、りきゅあは発言力のある味方をつけることにはぬかりがない。 「ゼッタイそうだよゥ!ね、バルもそう思うよネ?ね?ねッ★」 言いながらじっとバルナの瞳を覗き込む。そして、容易に自体は思い通りに運んだ。 「ゼッタイそうに決まってる!」 なんと悲しい男のサガだろう。男の下心がある限り、きっと百発百中だろう。そして、見え透いた理由で後押しするのだ。バルナもそんな男の例に漏れず、トムスに向き直る。 「この所ずっとみたいだし、俺じゃなくてお前の夢に出てくるってことは、ゼッタイ何かあるんだって!」 「そ、そうかなぁ?」 バルナの後押しでようやく口を開いたトムスだったが、まだ押しが足りないようで、りきゅあは次の作戦に出た。 「一番トムへの想いが強かったから…、どうしても伝えたいから、ターニャさんも一生懸命なんじゃないんかなぅ?」 「え、一生懸命?」 再び困惑の表情のトムを、りきゅあは少し寂しげな表情で見つめる。 「うん。普通、死んだ人って、霊界に行くって言うじゃない?でも、死ぬ前の世界に強い未練が残っちゃうと、霊界に行けないって言うじゃん!」 不安げな表情のりきゅあに、バルナが霊界に行けない死者について訊ねた。食いついて欲しい相手はトムスなのだが、話に真実味が出ると考えたりきゅあは続けた。 「それが幽霊、ゴーストになるんじゃないの?」 りきゅあの言葉に思い出したように納得したバルナ。少しずつ不安に駆られるトムス。 トムスは急に立ち上がり、荷支度を始めた。 「バルナ、すまない。りきゅあを連れて先に帰って。僕は…あの時の水場に行って来る!」 真剣な表情のトムスとは裏腹に、バルナは頭を掻きながら言った。 「オニイチャンにも再会させてほしぃなぁ〜」 三人は簡単な朝食と荷支度を済ませると、忌まわしい記憶の水場へと進路を変えた。山の麓に沿って、東に馬を走らせた。その水場は成人の儀式の通り道ということもあり、一日と近い場所であった。休みも取らずに早朝から走り詰だったため、空が赤く染まる頃には到着することが出来た。 小さく開けた森の懐。そこは静かに流れる小川のほとり。八年前と変わらない風景。さやさやと流れる小川に、薄衣で手を振る少女の姿が、はっきりとトムスの眼には焼きついていた。 「八年振りか…」 ポツリと呟くトムスの肩にバルナは手を置き、辺りを見回した。 「八年…懐かしいな……!」 言いながら、辺りを見回していたバルナの視線が水場で止まり、視線の先には、透ける様な白い肌の薄衣の少女が立っていた。…実際、少女の身体は透けていた。トムスは忌まわしい過去の記憶から目を逸らす様に固くまぶたを結んだままで、りきゅあにはその少女は見えていないようだった。 バルナは八年振りの、幼き日の妹との再会に驚くことなく、落ち着いた口調で言った。 「…八年経って、俺達ゃあ、あの頃夢見たような大人になれたのかねぇ?」 幼き妹と視線を合わせ、バルナは両手をトムスの両肩に添える。 「見かけばっかり年食っちまったが、中身はターニャみたくガキのままかもしれねーなっ!」 バルナはトムスを軽く小川に向けて押し出した。不意に押し出されたトムスは前のめりになり、否が応でも閉じていた瞳を開けて、バランスを取らなければならなかった。 しかし、視界に飛び込んで来た驚きの方が勝り、トムスは小川に突っ伏す形で水浸しになるのだった。 トムスの視界に飛び込んできたのは、八年前の姿のままのターニャだった。 水場にたたずむターニャの足元に膝まづいたトムス。そのトムスを覗き込むようにして微笑みかける少女の笑顔は、あの日あの時以来失われていた、懐かしい笑顔であった。 トムスがその笑顔に懐かしさを感じた瞬間、一陣の風がトムスとターニャを包んだ。トムスが浸かっていた小川が消え、周囲の森が消え、バルナやりきゅあの姿も消え、視界にあるのは風に揺れる『春の草原』の景色と、トムスが挿した真赤な花もそのままに、自慢だった黒髪を揺らし、微笑むターニャの姿だけだった。そう、まさに今まで何度となく夢に見た景色。 黒髪の少女は、両手で若草色の青年の頬を包むと、悪戯っぽく微笑んだ。 「ずっとね、待ってたの。…会いたかった」 少女はそのまま青年と唇を軽く重ね、鼻が触れ合うほどの距離で続けた。 「約束…覚えてる?」 「ああ、もちろんさ。『春の草原』にかかる虹を…二人で渡るんだ」 そう言ってトムスは寂しげに目を伏せた。 『春の草原』の虹。この虹には、『共に見た者に一生の絆を、共に渡った者に永遠の絆を与える』という伝説がある。生まれ変わりを信じる彼らの民族ならではの伝説だった。 しかし、四季がなく、天気が崩れることもほとんどない、この護られた草原で、虹がかかるということはほぼ皆無に近い。それだからこそ、『春の草原』を知るもの達の間に、こんな噂が広まったのだろう。『春の草原』を知る者、特に少女たちには絶大の支持を受け続ける伝説であった。幼き日より想いを寄せ合い、結婚の約束をした二人も、幼心に虹の伝説を誓ったのだった。 頬を包むターニャの親指が、閉じたトムスのまぶたをそっとなぞる。 「…そう、二人で渡って、永遠に一緒にいるの」 「ああ、そうだね」 トムスはそっと腕を伸ばすと、薄衣の確かな感触を感じた。そして、そのまま薄絹ごと少女を抱き寄せた。不意に抱き寄せられたターニャの顔は、トムスの頬を滑り、はるか向こう、風に揺れる『春の草原』を眺めていた。 「ごめんね…私、死んじゃって…」 少女を抱きしめるトムスの腕に、わずかに力がこもる。 「ターニャのせいじゃないよ…」 風に揺れる少女の黒髪が、二人を包む。 「もし…まだ、私のこと、好きでいてくれるなら…これ…」 少女はそっと青年の腕を解き、胸の前で二人の手を重ねた。手の中の現れた確かな感触。暖かく、懐かしい感触。少女は手を重ねたまま、青年に微笑みかける。 「連れてってほしいな…」 「もちろんだよ…一緒に行こう!」 トムスは重ねた手にぐっと力をこめる。それに応えるように、ターニャはまた微笑む。 一点の曇りも無い微笑。 「良かった…ありが…と…ぅ……」 ターニャの声を掻き消すかのように、一陣の強い風が吹いた。 いつもの夢に見る風。 ターニャとのお別れの風。 風が通り過ぎた後には、彼女の姿は無かった。そう、いつものように。けれど、いつもとは違う。なぜだか晴れやかな気持ちだった。いつものように風は彼女の姿を連れ去ってしまったが、トムスの心にはしっかりとターニャの思いが宿っていた。ありがとう、とターニャが微笑んでいた。 「トムスッ!トムスってばぁ!」 小さく開けた森の懐。そこは静かに流れる小川のほとり。辺りは夕暮れの赤みを微かに残すのみとなり、黒から赤への鮮やかなグラデーションの空には、ポツリポツリと星が瞬きだしている。 トムスは荷物を枕に横たわり、りきゅあは彼の名前を呼び、体を揺すっていた。 「ねぇ〜、どぉしよぉ〜!トムス、目ェ覚まさないよぉ!!」 りきゅあは軽く狼狽気味でバルナに言うと、バルナは小川から水袋一杯に水を入れてきた。 「ほれ、りきゅあどけっ!」 言うなり、りきゅあが避ける間もなく水をぶちまけた。 「うあっ!!冷たぁっ!!」 してやったり、と大笑いするバルナ。蹴飛ばそうとりきゅあが振り向くと、後ろから唸り声が聞こえた。トムスが目を覚ましたのだ。 「ほぅら、目を覚ますにはコレが一番なんだよ♪」 誇らしげに笑うバルナは放って置いて、りきゅあはトムスを抱き起こした。 「トムス、大丈夫??」 「あぁ、…うん。大丈夫だよ」 トムスは言い、無意識に握っていたコブシを開いた。そこにはターニャとの思い出の品が握られていた。当然、興味の塊のりきゅあは覗き込んだ。彼の手の中にあったのは、少し不恰好な玉虫草のペンダントだった。 「…それ…は?」 「彼女の…ターニャの形見…。僕が始めて作った、プレゼントなんだ」 バルナが上からぬっと覗き込み、トムスは心ここにあらずと言った調子で続けた。 「ずっと…どこにあるか分からなかったんだけど…ずっと、ここにあったみたい…」 そう言いながら、トムスはじっとそれを見つめていた。そして、静かに続けた。 「ターニャに会って来たよ。ここで、ずっと待ってたんだ。僕が、…見つけに来るのを…」 トムスの肩をぽんと、バルナが叩く。 「ああ、俺にも見えたよ。…あいつはまだガキのままだったな」 バルナが笑う。 トムスもつられて笑う。 りきゅあに抱きかかえられていたトムスは、自分で体制を整えて座りなおした。りきゅあは何で二人が笑っているのか分からないまま、二人の話に耳を傾けた。 「僕らも、あの頃のままかもしれないよ…少なくとも、僕の想いはあの頃と変わっちゃいない」 トムスは言いながら、玉虫草のペンダントを掲げる。わずかに残る一筋の夕日が、玉虫草の種に反射して、赤みを帯びた七色を散らした。 「何を基準に大人になるんだろうね」 舞い散る七色を見つめながらトムスが呟き、バルナが応える。 「儀式をすれば、行商に出るようになれば大人だと思ってたけど…」 そして二人の青年の声が不意に揃う。 「本当は違うのかもね」 二人は顔を見合わせ、笑った。 トムスはその場でごろんと横になり、バルナも同じ様に横になった。りきゅあは、子供のようにニコニコ笑いあう二人を、座ったまま見下ろしていた。 アタシなんかよりも全然年上なのに、何でこんなに無邪気に笑えるんだろ? ふふっ♪二人とも、なんだか子供みたいッ★ りきゅあはそんな二人を見ているうちに、なぜか自然に笑みが浮かんできていた。そして、つい口からこぼれおちた。 「大人になるって…むずかしいんだなぁ〜」 そう言ってりきゅあは二人の間に、無理やり割り込んで横になった。 三人は、夜空のグラデーションが暗くなるまで、しばらく笑い続けていた。 夜空を星の照明が飾るまで笑い続けた晩は水場で休み、りきゅあたちは翌日から三日かけて『春の草原』に到着したのだった。 |
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