分神ノ詩
−わかつかみのうた−



-CAST-
紅葉…くれは。実はりきゅあ。ハーフキャットの16歳。フードの女。黒樹に片思い。
黒樹…くろき。ダークエルフ。年齢不詳(200歳以上)。本名はガラドリエル。特務隊長。
双樹…そうじゅ。人間の27歳。本名はアヅキ。幼馴染のマナホが好き。
若葉…わかは。人間の25歳。本名はマナホ。『魅了』の魔法で、勘違いさせられている。




 満月の夜。四人の若者たちが『夢見心地亭』の酒場で暖を取っていた。店の外はちらちらと雪が降り始めている。
 『夢見心地亭』は一階が酒場、二階が宿という造りになっていて、四人の若者たちは今夜の宿の契約を済ませていた。
 季節は冬の初め。冬本番にもなると大雪で身動きが出来なくなるこの街を抜けて、ドワーフ族の『グリムスの大洞窟』へと歩を進めたい所であった。
 四人の若者は揃って黒尽くめの衣装で、酒場の他の客からは怪訝な視線を浴びていた。四人は酒場の隅のテーブルに座り、余計に視線を集めていた。
 一番奥は痩身で黒い長髪、浅黒い肌の美しい顔立ちで、赤い瞳が印象的な男だ。彼がリーダーの様で、他の三人は彼の指示に従っていた。彼の左手に座るのは小柄な女で、深々と被ったフードから赤紫の髪がちらちらと覗き、か細い白い腕がせわしなく動いている。痩身の男の正面に座るのは体躯のいい青年で、短い黒髪にバンダナを巻いている。最後の一人も女性で、腰までの美しい黒髪を背中でまとめ、一団の世話役のように、各種の手続きを行っていた。そして今も、店員にラストオーダーの対応をしていた。
「…を三人分と、炙り魚を一つ、ワインのボトルを一本と、果実酒を二つ。よろしくね」
 気さくな感じで注文を終え、仲間の方へと向き直って続けた。
「ふふっ、ゆ…き。貴方の予想よりも、ずいぶんと降り始めるのが早かったじゃない?」
 黒髪の女は赤いラインを引いた瞳で、痩身の男を見つめる。痩身の男は飲みかけのジョッキを片手に静かに応える。
「この雪は今だけだ。今夜中に止む」
 言葉少なに応え、ジョッキに半分ほど残ったエール酒を流し込んだ。黒髪の女が何かを言いたそうなのに気づき、フードの女がすぐに言葉を付け足す。
「降ってるってモ、ぱらぱらだっし〜★ここまでだって予定通り着けたワケだっしィ〜…」
「ぱらぱら〜、ッて、あんたの頭の中こそぱらぱらぱ〜のぱ〜でしょ。ふん!」
 黒髪の女がキッと睨みつける。痩身の男はフードの女を、バンダナの男が黒髪の女に静止をかける。黒髪の女は勝ち誇ったようにフードの少女を見下し、フードの女は何度も痩身の男と黒髪の女とを交互に見た。
「ゥぐ〜…」
 フードの女は微かに唸り声を上げ、黒髪の女を睨む。それに気づいた黒髪の女が鼻で笑うと、フードの女はがばっと細身の男に抱きついた。フードがはだけ、赤毛に真白な耳がひょこっと立った。不思議な赤毛の、猫耳の少女だった。
「黒ちゃんはアタシのだもーン!!」
「キーーーーッ!離れなさい!!紅葉!!」
 黒髪の女は椅子が飛ぶほど勢いよく立ち上がり、紅葉(くれは)と呼ばれた少女に組みかかった。バンダナの男が黒髪の女を後ろから羽交い絞めにし、紅葉から引き離した。抱きつかれた痩身の男は慌てる様子もなく、引き離される黒髪の女を見据えた。
 バンダナの男が黒髪の女を椅子に座らせ、落ち着かせた。
「マナ…あ、…若葉、相手はまだ子供じゃないか。なにカッとなってるんだよ」
「べ、別に!!…この子、ムカつくのよ」
 若葉(わかば)と呼ばれた黒髪の女は紅葉と正面を向かないように座り、チラリと目をやった。紅葉はそれに気づいて、あかんベーをした。
「!!」
 当然気づいた若葉は、瞬時に攻撃態勢に入っていた。
「まて、まてっ!!」
 紅葉のあかんベーに殴りかかろうとした若葉は、バンダナの男によって再び羽交い絞めになっていた。見るに見かねてといった様子で、黒樹が口を開いた。
「…若葉、紅葉。……目立ち過ぎだ」
 黒樹の言葉に若葉が周りを見回すと、先ほどまでとは明らかに違う、好奇の視線が集まっていた。つい先程までは、周囲を圧倒するほどの威圧感に、畏怖にも似た視線を受けていたが、ギャップのありすぎる振る舞いに、好奇の視線へと変わっていくのも無理はなかった。
 好奇の視線に赤面し、若葉は大人しく着席したが、紅葉は黒ちゃんと呼ぶ痩身の男から離れなかった。ようやく落ち着いた若葉の隣にバンダナの男が腰を降ろし、黒ちゃんに話し掛けた。
「ずっと気になってたンすけど、黒樹さん、何で俺達を選んだんです?」
 バンダナの男は黒樹(くろき)の顔を覗き込み、二人の女性もそれに続いた。黒樹と呼ばれた痩身の男は、表情一つ変えずに話し出した。
「気になるか?」
 黒樹は一言いって言葉を切った。
 黒髪の男女は頷き、さらに黒樹を見つめるが、紅葉は一人そっけない様子で言った。
「運命の出会いだモン★」
 紅葉が言い、黒樹を見上げると、若葉がまたイラツキだすのが分かった。黒樹は鼻で笑い、続けた。
「運命…か。調和の民の言いそうなことだな…」
 黒樹は抱きつく紅葉を見下ろし、首から下げた小袋を取り出して、中から少し歪な四面体の水晶を取り出した。
「何故お前たちが選ばれたのか、こいつに聞くがいい」
 そう言って黒樹は、少し歪な四面体の水晶をテーブルに転がした。
 真っ先に手にしたのは紅葉だった。紅葉は早速いろいろと眺め出す。
「水晶さ〜ン、何でアタシたちが選ばれたの〜ぉゥ?」
 紅葉が水晶に語り掛けていると、若葉がそれを横取りする。
「バカなことやってないで貸しなさい!」
 水晶を取り上げた若葉が、水晶を明かりに透かした時に、黒樹の言葉の意味がようやく分かった。ちょうど真下に来た面に、バンダナの男の顔が映り込んでいたのだ。今の立ち位置から考えても、どうやっても映り込めるはずはなかったし、水晶に映っている姿は、反射とは思えないほどに鮮明だった。
「…双樹が…映ってる…」
 不意に名前を呼ばれたバンダナの男、双樹(そうじゅ)も瞬時に興味をそそられた。覗き込もうと近づくが、若葉は次々と面を変えていく。
「私も…紅葉も黒樹さんも映ってる!!…これは…どういうこと…ですか?」
 驚きに囚われている若葉の手から、紅葉、双樹と水晶は移って行った。若葉は黒樹に向き直り、聞かずにいられなかった。黒樹は瞬きを一度しただけで、表情を変えずに言った。
「『導きの石』…エルフに伝わる宝石だ。事を起こす時に銀のクサビを打ち付ける。すると、成功に必要な人数分の面を持った破片が砕ける。そして、その面に成功へと導く者達が浮かび上がるのさ」
 若葉の瞳を見据えた黒樹の赤い瞳が、さらに赤味を増したように見えた。


 時を遡ること1週間前。場所は断崖絶壁の上に密生する神秘の森。
 太古より地上との交流が絶たれ、地上から見上げるこの森は常に陽光を背後に、木々の陰しか見えなかったので『黒の森』と呼ばれていた。『黒の森』には古代種のエルフが住むという言い伝えがあるが、それを確認したものはいない。
 かつては北向かいの絶壁、ドワーフの住むグリムス山脈の一部だったらしいが、一匹の山羊を仕留めるために巨人が槌を振り下ろし、山脈が切断されたと伝えられている。そのため、『黒の森』グリムス山脈を隔てる谷を『山羊追の谷』と呼んだ。谷と呼ばれてはいるが川が流れているわけではなく、伝説を裏付けるように、大小様々な岩が転がっているだけの、草木の生えぬ石の荒野であった。
 この『山羊追の谷』を境に、西に『アンタレス』、東に『ベガ』と言う人間の国が隣接し、この谷で何度も小競り合いを繰り返していた。互いに、人口二百万人規模の王国で、それぞれの背後を強力な同盟国が抑えている為に、事実上のグリムス山脈の東西国家の最前線となっていた。一触即発の危機を常に抱く土地である。しかし、季節を通して気温は低く、土地は痩せ、冬は国交が途絶えるほどの大雪が降る為、この地を離れる者が多いのもまた事実であった。そう言った背景もあり、諸外国の政治屋からは、『軍事傀儡国』『捨駒の国』と呼ばれることも少なくなかった。
 そんなこの二国を見下ろす『黒の森』で、一人の男が今まさに特務を受けようとしていた。
 樹齢何千年といった感じの老木の城。その天然の要塞の玉座の間には、浅黒い肌の露出の多い、シルクの緩やかなドレスに身を包んだ少女が身を投げるように横たわり、輝かんばかりの銀髪を振り乱していた。浅黒い肌、薄暗い部屋の中で、その銀髪は際立って美しかった。
 玉座の間に呼ばれて現れたのは、痩身で黒い長髪、浅黒い肌の美しい顔立ちで、赤い瞳が印象的な男。身長は人間よりも少し高く、長い黒髪からは、すらりと尖った、人間の倍ほどの長い耳が見え隠れしていた。男は玉座の少女の前まで来ると、膝まづき、深々と頭を下げた。
「女王陛下殿、ご機嫌麗しゅう御座います。本日も又、何時にも増して御美しく在られ、誠に…」
「戯言は良い、聞き飽きたわ…」
 銀髪の女王が男の口上を静止すると、男は姿勢を起こし、口を開いた。
「私めをお呼びに為られたのは如何様で御座いましょう?」
「うむ。眼下の二国が休戦協定を結ぶと言う噂が流れておる」
 女王はその美しい銀髪を一房掴み、さらさらと華奢な手のひらから零した。
 男は眉一つ動かさず、薄い唇を開く。
「協定の締結はひと月後、休戦期間は無期限との事。グリムスの酒樽が口を挟んだ模様…」
 男の低い声が老木の洞に響く。
 女王はまた一房髪を掴み、同じ様に手のひらから零した。
 まるで、煌びやかな光の粉が舞い、ハープのような美しい音色が聞こえてきそうな光景である。
 女王はもう一房髪を掴むと、髪を見つめたまま言った。
「グリムスの…ほぅ…」
 女王の語尾が上がり、髪が再び宙を踊る。
 男が口を開く。
「グリムス王が双方より援軍要請を受けた上で、『グリムス内の両勢力は拮抗している。無期の休戦を提案したい』と茶番を打ったのだそうです」
 女王は右腕全体を使って、大きく髪を掻き上げる。
「グリムスの酒樽め。樽底に溜まった浅知恵で、又人間を庇うか…。まぁ…良いわ…。ガラドリエル、分神が御主を所望じゃ」
 女王はその容貌に似つかわしくない程の色香を含んだ瞳を向ける。
 男は再び頭を下げる。
「アンタレスとベガ…で御座いますね。承知致しました」
 言って男は立ち上がり、一礼をすると、女王の美しい声が呼び止めた。
「グリムスの酒樽も…最近は満ちている様ではないか…」
 深々と頭を下げた男の向こうに、華奢な少女が立ち上がった。
「酒樽を全て打ち壊し、一滴残らず干上がらせよ!良いな!!」
 女王は語気荒げ、身を翻すと、ガラドリエルの返事を聞かぬままに、奥の間へと消えていった。玉座の間に取り残されたガラドリエルは静かに、しかし確かな口調で言った。
「御意の…ままに」
 ガラドリエルは玉座の間を後にし、宝玉の間へと急いだ。
 宝玉の間の入り口の両脇に衛士が立ち、手の持った矛を入り口を塞ぐ様に交差させているが、衛士達はガラドリエルに敬礼をし、矛を立てて脇に下げた。ガラドリエルは衛士達に一瞥すると、奥へと入っていった。奥へと進んでゆくガラドリエルの背後で、矛を合わせる金属音が響いた。
 しばらく薄暗い通路を進むと、やがて開けた場所に出る。部屋への出入り口は一つで、中央の台座に牛ほどの大きさの、淡く輝く石が置かれており、それがこの部屋の唯一の光源となっていた。出入り口と輝く石の中間辺りに、腰ほどの高さの台があり、樫の木槌と銀のクサビが、それぞれ一つずつ置かれていた。ガラドリエルはそれらを手にとり、淡く輝く石の前で立ち止まった。しばらく古代の魔法後が響いた後で、石の砕ける高音が薄闇の中に響き渡った。

 翌日の午後。陽の光はすでに傾き、カラスと行商人は帰途に着き始めていた。
 ガラドリエルは『アンタレス』の首都にいた。全身黒尽くめの防寒服で、フード付の黒いマントを深々と被っていた。ガラドリエルは手に持った水晶の破片を夕日に照らすと、他に目もくれずに一人の少女に近づいて行った。
 ガラドリエルが声をかけたのは、赤とオレンジの生地を編み込んだ防寒服の少女だった。毛糸のポンポチの付いた、二つ割れの帽子を被り、ファー付のミトンに同じくファー付のブーツ。防寒服の裾からは白い尻尾が揺れていた。
「娘…冒険者りきゅあだな。君を雇いたい」
「ほぇ?」
 りきゅあはぽかんと黒尽くめの男を見上げていた。はっと我に帰り、自分の姿をせかせかと見回す。
「ぁ、あの〜、冒険者に見える〜?」
 夕焼けが二人を照らす中、しばしの沈黙が訪れた。先に口を開いたのは黒尽くめの男だった。
「…違うのか?」
 男の短い質問にりきゅあは身体全体で返事をする。
「ううううううううん、違くはないんだけどサァ〜、よっく分かったねェ〜★」
 あまりにぶんぶん顔を振りすぎて、語尾が揺らいでいる。
 男は調子を変えずに続けた。
「君を冒険者として、…魔界の者として雇いたい」
 二人は場所を酒場に移し、黒尽くめの男は個室を頼み、二人分の果実酒が運ばれると、内側から鍵を閉めた。
 りきゅあは奥の席に座って、ニコニコして黒尽くめの男を見ていた。
「ずいぶん厳重なんだね〜★」
 少女の言葉の終わりを待たずに、男はフードを取り、振り返った。
「君こそ魔族にしては軽率じゃないか」
 さらさらの黒髪が舞い、浅黒い肌に真赤な瞳が際立つ。
「かーっくいー★」
 りきゅあが両手で頬杖をつき、ウィンクする。りきゅあは自分を無視して席に座る男に続けて話し掛けた。
「ケイソツッてなーに?アタシ、昨日こっち出てきたばっかりナノ」
 男はりきゅあの正面に座り、テーブルに肘を立てて、顔の前で手を組んだ。
「ほぅ。…私は黒樹と言う。魔族として、人間に手を下す為に君の力を借りたい」
 ガラドリエルは実名を明かさず、偽名を使った。窺うように見つめる黒尽くめのガラドリエル…黒樹とは対照的に、りきゅあはあっけらかんとしたものだった。
「いいよ、黒ちゃんカッコイーから★」
「ふっ、警戒も物怖じもしない。面白い奴だな。人間を殺すことに抵抗はないのか?見たところ、ハーフのようだが?」
 りきゅあはちょっと戸惑い、はにかんで笑いながら答えた。
「うん、はーふだよっ★抵抗は…まだ殺したことないから分かんない★テンちゃん先生は、必要以上に殺しちゃダメだって言ってたケド…」
 黒樹の唇がぴくりと上がった。
「明るくとんでもないことを言う。まあいい。今回の仕事は、必要に駆られての事だ。この『アンタレス』と、隣の『ベガ』を戦争させる。きっかけを与えてやれば、人間と言う種族は勝手に子孫の代までいがみ合い、殺し合ってくれる。他の動植物よりも手が掛からなくて楽な物さ」
 言い終えると、黒樹は果実酒を半分、一口で飲んだ。
 りきゅあも果実酒を口にする。
「わぁ★コレ、おいしー!」
 りきゅあは満面の笑顔で黒樹を見つめる。
「一緒にいる間、またコレ頼んでもい〜い?」
 黒樹は、ああ、短く答え、りきゅあを見つめ直す。
「テンちゃん先生というのは?」
 果実酒のおいしさに小躍りするりきゅあは、両手を上げたままの格好で答える。
「アタシを育ててくれた人。で、いろんなコト教えてくれたんだよ!アイテムの創り方も教えてくれたの!『辺境の鍛冶師』って、魔界じゃメッチャ有名だったんだからゥ!…って、もぅ死んじゃったんだけどねぇ」
「『辺境の鍛冶師』…デュランダルか。堕ちた天使に育てられた娘だったとはな。では、分神の事も知っているか?」
「ワカツカミぃ?」

 分神はかつて聖界にあり、前後対象の姿をしていた。名はブレンディバイドと言って、統合と分割について深く想像し、提案を行っていた。ところがある日、二人の娘にこう訊ねられた。
「私たちはある一人の男性を愛しています。とても彼なしでは生きる喜びを感じることなど、出来ようはずもありません。私たちはどうすればよいのでしょう?ああ、お導きください!」
 この時、ブレンディバイドは大きな過ちを犯してしまった。国の様に、資財の様に、均等に分け与えてしまったのだ。男は二人の乙女の前で真っ二つに切裂かれた。
 その失敗が聖界の王の耳に入り、ブレンディバイドの持ちうる力の半分に罪を償わせることにし、統合を創造するブレンドを聖界に残し、分割を創造するディバイドを魔界に堕とした。後の伝承で、聖界の残った統合を混神(まずるかみ)、堕ちた分割を分神(わかつかみ)と呼ぶようになった。

「なんだぁ、ディバイドおじさんのことかぁ。そういえば、国が大きくなりすぎたからどうとかって、よく言ってたー!」
 りきゅあはようやく納得した様子で、笑顔を取り戻した。
 黒樹はりきゅあの理解を確認した上で、そういうことだ、と短く言った。
 黒樹は立ち上がると、再び深々とフードを被った。
「この作戦中、君の事は紅葉と呼ぶ。これから戦争を起こすのだから、本名は伏せておいた方が良いだろう。もちろん、みだりにその耳と尻尾も出さない方が良い」
 はぁ〜い、と生返事で尻尾を振る。
「アっタっシっわ〜♪く・れ・は〜★く・れ・は〜★く・れ・は〜★」
 りきゅあは言い聞かすように繰り返して歌った。
 黒樹が鍵を開け、部屋を出るのに気づいて紅葉が駆け寄り、腕を組むと、そのまま引きずられて行った。
 そうしてるうちに、二人は宿屋のカウンターに着いた。宿屋の店主は、宿帳を開いて、ぴったりくっつく二人に、にやつきながら言った。
「お楽しみでしたら、とびきりの部屋がありますよ、ご両人★」

 さらに翌日。
 りきゅあ改め、紅葉は黒樹の懐で目を覚ました。
 ふかふかの布団と黒樹の体温が暖かい。耳元で黒樹のトクントクンという音が聞こえる。布団の中でぐいっと伸びを一回、布団からひょこりと顔を出すと、黒樹はまだ眠っていた。
 ほっぺをぺろっとなめる。
「黒ちゃん、おっはよ〜ン★」
「ああ、おはよう」
 言葉少なに黒樹は立ち上がる。痩身ではあるが、無駄のない美しい筋肉質の身体に下着だけを身に付けている。寝るために編んでいた黒髪を解くと、黒樹はシャツを手に抑揚のない口調で言った。
「今日はこの街で人間を探す。二人だ。さっさと着替えて出るぞ」
 ほぇ〜ぃ、と生返事の紅葉。紅葉は寒さに布団から出られずにいた。もぞもぞと布団の中を移動し、服を取ると、また布団の中でもぞもぞとやりだした。
「ぎゃ〜っ!服、つめたぁ〜!!」
 黒樹はとっくに着替えを終えていて、窓辺に腰を掛けたまま、指先に止まった小鳥のさえずりに耳を澄ましていた。紅葉はようやく布団から這い出すと、上着が裏返しだったことに気付いて、その場で着直した。
「おまたせぇ★さむぅー!!」
 そう言って袖に手を引っ込めて、身を縮込ませる紅葉。
 黒樹は指先の小鳥を空へと放した。
「二人の居場所はわかった。早速行くぞ。…ところで、君の荷物は何もないのか?」
 バックパックと矢筒を背負いながら黒樹が聞くと、紅葉は防寒着の前を開き、ポシェットの肩紐を引っ張り出した。
「コレだけ★テンちゃんに貰ったの。イッパイ入るんだぁ♪」
 テンペスト・デュランダルが養娘に送った異次元ポシェットであった。
 確かに、見れば防寒着の下に着ている服は昨日とは違うものだった。黒樹は、行くぞ、と短く言った。
 宿帳に退室を記入していると、またもや親父がにやついて訊ねた。
「昨日のお部屋はどうでした?たっぷりお楽しみになれましたか?いひひ♪今晩も是非、当店でお楽しみくださいませ」
 黒樹は無言で、紅葉はハテナをたくさんくっつけて宿屋を出た。
「黒ちゃん、昨日からおじさんが言ってる『お楽しみ』って、なぁに?」
 ぴったりくっついて、腕を組みながら、紅葉が見上げる。
「さぁな。今日これから人間の男と女を一人づつ仲間に加える。何が『お楽しみ』かは、今夜、女にでも聞くがいい」
 ほぇ〜ぃ、とあしらわれた紅葉は生返事であった。
 しばらく歩くと、商店は姿を消し、路地は住宅街へと変わっていった。一方的に感動を伝えていた紅葉を黒樹が静止する。
「そろそろだ。これから宿を取るまでの間、君は口を聞くな。そして、彼らを仲間に加えた後は、本来の目的さえ告げなければ好きにして構わない」
 ふぁ〜ぃ、と返事をしながら、黒樹が魔力を高めているのを紅葉は感じ取っていた。
 黒樹は民家のドアを叩き、出てきた住人にカッと目を見開く。それと同時に、瞬時に周囲に魔法の空間を作り出した。
「アンタレス王からの勅令です。マナホ殿はおられるか?」
 黒樹の魔力に取り込まれた婦人は、娘のマナホを大急ぎで連れて来た。現れたのは、腰までの黒髪の女性で、食事中だったのかトーストをくわえたままだった。マナホが姿を現すと、黒樹はすかさず瞳を覗き込んだ。
「マナホさん、ですね。貴女に使命が課せられました。ご同行ください」
 マナホの瞳は見開かれ、輝きを失っていた。そして、心無く言葉が漏れる。
「は…い…!…きゃ、きゃー!こ、こんな格好…しっ、失礼しました!すぐ用意してきますぅ〜」
 マナホは途中で気が付いたように、トーストを背後に隠すと、赤面して部屋に走っていった。民家は、誰もいないドアが開け放してある。
「い〜けないんだ。街ン中で魔法使っちゃダメなんだよ」
 つい小声で紅葉がこぼしたが、黒樹は無言だった。
 黒樹は、呪文の言葉こそ唱えてはいないが、強力な『魅了』の魔法で辺り一帯を覆っていた。そして、マナホの瞳を見つめ、彼女の意中の人と自分の存在を摩り替えたのだった。
 しばらくしてマナホが荷物をまとめて現れた。
「お待たせしました。あ、あの、宜しくお願いします」
 黒樹は無言で頭を下げると、マナホの瞳を深く見つめた。
「マナホ殿、アヅキ殿も同じ使命を課せられております。呼んで来て、頂けますね」
 再びマナホは心無い返事をし、隣の民家のドアを叩いた。ドアが開くと、会話の調子は普通に戻り、アヅキが連れ出された。黒樹は、アヅキも同じ様に『魅了』した。
「さあ、仲間は揃いました。参りましょう」
 黒樹の抑揚の無い声に、うっすらと笑みが含まれていたような気がした。

 満月の夜。『アンタレス』の国境の程近いこの街の『夢見心地亭』で、四人は暖を取っていた。店の外はちらちらと雪が降っている。
 『夢見心地亭』は一階の酒場の奥の席に四人は座っていた。
 一番奥は痩身で黒い長髪、浅黒い肌の美しい顔立ちで、赤い瞳が印象的な男だ。彼の左手にぴたりと座っているのは、不思議な赤毛の、猫耳の少女。痩身の男の正面に座るのは体躯のいい青年で、短い黒髪にバンダナを巻いている。最後の一人も女性で、腰までの美しい黒髪を背中でまとめ、歪な水晶片を片手で弄んでいた。
 四人の若者は揃って黒尽くめの衣装で、酒場の他の客からは好奇の視線を浴びていた。
 若葉は水晶片を黒樹に渡しながら言う。
「でも、この『導きの石』の仲間を揃えて、目標が達成できるなら、何もこんな面倒なことしなくてもいいんじゃないの?」
 水晶片を受け取った黒樹は、胸元の小袋に納め、小袋を胸元に納めた。そして静かに言う。
「達成する為には始めなけばならない。『導きの石』とは、そのための仲間を引き合わせる為だけのものだ。この石がどうとしてくれる訳ではない。何もしなければ、何も起こらんのさ」
 双樹が黒樹のワインを注ぎ足し、自分のグラスにも注ぎ足した。一口飲んで、双樹が言葉を継ぎ足す。
「ともあれ、選ばれた俺達が行動を起こせば、それは自ずと成功すると」
「そう言う事だ」
 口元まで運んだグラスを止めて黒樹は言い、言い終えると薄い唇にワインを流し込んだ。
 翌日の朝早く、四人は街を発った。昨夜の黒木の言葉どおり、雪は夜のうちに止み、藍で染めたような深い青空が広がっていた。
 黒樹と紅葉、双樹と若葉に分かれて馬を駆り、『アンタレス』と『ベガ』の、二国の国境に当たる『山羊追の谷』に向かった。谷に出ると軽い食事だけの休憩を取って、北のグリムス山脈を目指した。
 すでに陽も沈み、コウモリの一団が赤黒い空を飛び去ってしばらくした頃に、切立った『山羊追の谷』の北壁、グリムス山脈がその壮大な姿を現した。そして、切立った絶壁の麓には、闇夜を飲込むほどの暗黒が大きな口を開いていた。
 黒樹は手綱を引き、転がる大岩の影に身を潜めるように馬を止めた。双樹もそれに続き、小声で会話が出来るほどの距離へと寄った。
 黒樹がすっと右手で小さな円を空に描くと、その軌跡に光の精が集まり、周囲を見回すには十分な明かりを確保した。そして、懐から一通の書状を取り出すと、双樹に手渡した。
「その書状は、休戦協定を結んだタイミングで、アンタレスとベガの両軍がグリムスを挟撃する旨を記した指令書の写しだ。アンタレスの同盟国に届くはずだった内の一枚だ。双方の王印も押されている」
 黒樹の突然の言葉に、書状を受取った双樹も若葉も驚きを隠せなかった。双樹の書状を持つ手は震えた。
「俺達は王の勅令で来たんじゃないのか?」
 双樹は書状の内容を確認したが、黒樹の言う通りの内容であった。確かに、二国の王の王印も押されていた。
「な、何でそんな物が…!?街の噂じゃ、グリムス王の尽力で休戦の運びになったって……」
 狼狽気味の若葉の言葉に、黒樹はいつもの調子で答えた。抑揚の少ない、無感情の声。
「アンタレス、ベガ…。この背後を同盟国で塞がれた二国が互いに領土を侵すことを止めるということは、すなわち現状維持を意味する。しかし、共に痩せた国土の二国では自給自足も先が見え、いずれは同盟国に吸収されるのが目に見えている。しかし、ドワーフ達の占拠するグリムス山には莫大な地下資源が眠り、彼らの大洞窟は山脈の向こう側へと抜けている…」
「山越をしなくても山向こうの国と貿易が出来る…でも、そんな…」
 失意の色濃い双樹の声は震えていた。
 震える双樹の声を掻き消すように、冷たい黒樹の声が続けた。
「戦争とはそう言う物だ。いつでも指導者の強欲が引き金となる…」
 黒樹は再び懐を探り、もう一通の書状を取り出した。
「ついでに面白い物を見せてやろう。これも同じ使者が持っていたものだ。…こちらの方が、刺激が強いかも知れないな」
 双樹が恐る恐る内容を確認する。
「!」
 双樹は書状を開いたまま、あまりの衝撃に言葉を失った。手渡されたもう一通の書状には、挟撃成功の果ての事が記されていた。次の一文が、この書状の全てであった。
『挟撃成功の暁には、貴公らの同盟軍の精鋭を以って、疲弊したベガを奇襲す』
 若葉も驚きに身を凍らせた。
「…そんな…そんなことって…」
 いつのまにか馬から下りていた紅葉は、呆然とする二人の手から書状を取り上げて読んだ。
「あわわ〜♪人間って、魔族よりも殺すコトが好きなんじゃないの?」
 あっけらかんと言い放つ紅葉から書状を取り上げた黒樹は、元通りに折畳み、奇襲の書状を懐にしまい、挟撃の指令書を双樹に差し出した。
「この作戦を潰すのが、我らに与えられた使命だ」
「え!?」
 顔を見合わせる双樹と若葉に黒樹が続けた。
「その為にわざわざここまで来たのだ。ベガ王の策に乗り、一度は挟撃を目論んだ物の、かのドワーフは屈強な戦士の種族だ。一筋縄ではいかないと、アンタレス王はベガをグリムスに売ることにしたのさ。そこで君らの登場だ」言葉を切って、黒樹は二人の人間にそれぞれ目をやる。「アンタレス人の君らが、その書状を差し出して、ベガ王にそそのかされたのだと、アンタレス王の潔白を訴える。一介の市民である君らが蜂起したと言う事にしてな」
 黒樹は冷淡に言い切り、若葉は不安げに視線を泳がせる。 「そ、そう…うまくいくのかしら…」
 若葉が心配げにうつむくと、黒樹はすぐ隣に馬を寄せ、ついと彼女のあごに指をかけ、顔を上げさせた。不安に囚われた若葉の瞳を、黒樹のかっと見開かれた真赤な瞳が飲込んだ。彼の言葉が、若葉の瞳から全てを奪った瞬間だった。不安も、そして彼女の意思も全て…。
「…大丈夫だ、問題はない。やり遂げるんだ」

「ウソツキ黒ちゃん★」
 紅葉は大岩に腰掛け、黒樹を見下ろしている。風に吹かれて耳障りな音がするので、マントのフードは脱いでいた。
 すでに星屑柄のマントで空は覆われ、あたりは星の薄明かりで照らされていた。黒樹が集めた光の精はすでに散らされ、淡い星光に溶け込んでいる。
 双樹と若葉は書状を手にグリムス王相手に一芝居を打つために、『グリムスの大洞窟』に経った後で、黒樹は紅葉が腰掛ける大岩に背もたれるような格好で、腕を組み、目を閉じ、夜に耳を済ませていた。
 黒樹は紅葉の言葉を鼻であしらう。
 紅葉は大岩の上に大の字に寝転がると、瞬く星空に目を輝かせた。
「ちょーキレーぇ★黒ちゃんもおいでよ〜ゥ★」
 紅葉の緊張感の無い声が黒樹を呼ぶ。黒樹は聞こえているのか、聞こえていないのか、微動だにしない。黒樹の耳に聞こえているのは風の音か、闇の囁きかと言った感じであった。
「ちぇ〜っ。こんなキレーな空、魔界じゃ見れなかったから、大好きな黒ちゃんと見たいと思っただけジャン!ぶぅ〜!…あ!流れ星ッ★」
 紅葉の指差した先には、散ばった星々の間を縫うように、けれど美しい弧を描いて、一筋の光が走った。それを聞いた黒樹は、頃合いか、とだけ言い、音もなく紅葉の隣に飛び乗り、腰を下ろした。
 紅葉は体を起こしながら、頃合いって?と聞き、答えを待たずに寄り添うように座りなおした。ぴたりとくっつき、見上げる紅葉を無表情で見下ろしながら黒樹は答えた。
「そろそろ酒樽との交渉が大詰だろうと言う事さ」
 言いながら黒樹は視線をグリムスの絶壁に開いた大穴に移した。紅葉も釣られて視線を移していた。
「そう言えばさ〜あ〜、あの書状…どうやってってか、いつ手に入れたの?」
「そんな書状(もの)は初めから存在しない。在るのはグリムス王が持ちかけた休戦協定だけだ」
 そう言った黒樹を、一瞬ざらついた魔界の風が包んだ。それを黒樹が発したのか、黒樹が取り込んだのかは分からなかった。黒樹はいつもの冷淡な口調で続けた。
「ドワーフは情に脆く、正義に厚い…そんな奴らの性質を利用させて貰ったまでのこと。鉱石の精霊でありながら、日々、酒だ、宝飾細工だと人間社会に肩入れするあまりに、姿を消すことすら出来なくなってしまった愚かな種族…人間と同じ道を歩むのであれば、それも本望であろうと言うもの…」
「それって…ドワーフも巻き添えにするってコトぉ?!」
 紅葉の言葉をかき消すかのように、一陣の風が吹いた。
「巻き添え…か。私が言ったことを覚えているかな?」
 黒樹が紅葉を見下ろす。一陣の風に耳を伏せていた紅葉が、ぴょこんと耳を立てる。黒樹の視線に気づいたのか、自然と二人の目が合った。
「ん〜っと。アンタレスとべガを戦争させて、いっぱい人間を殺〜ス♪」
 紅葉は絶対正解とばかりに、元気いっぱいで人差し指を夜空に突き上げた。満面の笑みで黒樹を見つめる紅葉に、黒樹の頬が微かに緩んだ。
「不正解」
  ほぇ?????????
 不思議でいっぱいと顔に書いてある紅葉を諭す黒樹は、いつもの無表情に戻っていた。
「分神の望みは戦争をさせることだ。更に簡単に言えば、仲違いさえしてくれれば良いのだよ」
 いくら聖族と言えど、願えば叶う物ではない。創造は出来ても、行使する対象が必要なのだ。そこで分神は自らの魔力を与える実行部隊を、エルフの中から選別したのだ。こうしてエルフから選ばれた者は、魔族の洗礼を受けたエルフは自らをダークエルフと呼び、強力な魔力を得た。強力な魔力を得た代償として、精霊界から追放されたのだった。
「…きっかけを与えてやれば…勝手に子孫の代までいがみ合い…殺し合ってくれる…」
 紅葉は心無げに思い出したままの言葉を並べた。
 そう言うことだ、と黒樹は視線を大洞窟へと戻した。
 ソユコト…、と紅葉も黒樹の視線を追った。


 翌朝、黒樹のマントと腕に包まれて紅葉は目を覚ました。昨夜遅くから風が強くなり、風除けのために積上げた即席の暴風壁の効果もままならず、紅葉は勝手に黒樹の懐に潜り込んだのだった。
「ふぁ〜、おッはよ〜ん★」
 マントの中から黒樹の顔を見上げる。浅黒い肌に、高い鼻。もう何度見上げた景色であろう?
「…奴らが戻ってくる。次はべガの首都に向かうぞ」
 言い終えるのが早いか、黒樹は立ち上がろうとしたが、紅葉が阻止する。
「寒いから到着するまでこのまま…ネ★」
 程なくして軽快とは言えない蹄の音が聞こえて来た。黒樹は目を閉じ、短く呪文を唱えると、フッと短く吹いた。黒樹の吹いた息は周囲の空気と同化し、周囲の景色を黒樹の思考に直接送り込んだ。
 馬を操っているのは若葉で、双樹は意識がないらしく、若葉の前で腹這に括り付けられていた。黒樹は意識を微かな風に乗せて、更に周囲を見回した。ドワーフの追手は無い様だった。
 そうしている内に、黒樹達が風除けにしている大岩の脇に若葉の操る馬が現れた。若葉はきょろきょろしていたが、すぐに二人を見つけた。
「いたーっ…って、あんた!なんでそんな所に居るのよぉ!…んもぉ、やーだぁ〜〜〜っ!!」
 若葉はうなだれ、双樹の体に屈み込む。が、次の瞬間には体を起こして、双樹の尻を引っぱたいた。
「ッ…酒くさいっ!!」
 若葉は二人に駆け寄ると、紅葉を黒樹から引き離し、何とか落ち着きを取り戻し、黒樹に報告をする。報告の内容は次の通りだった。
 グリムス王に書状を見せると激しく激昂し、アンタレス王の潔白を説くと激しく感涙したのだという。その際にもその後にも、驚くほど自然に言葉が並び、グリムス王に疑う余地を与えぬままに、『べガ』に対する共同戦線を張るという盟約を取り付けたのだった。そして、書状は若葉の手にしっかりと握られており、グリムス王の署名も確かにあった。
 その後、打倒『べガ』を掲げた宴会が朝まで続いたという事だった。
「これじゃあ、すぐに行動…出来ないネ★」
 ぐったりしている双樹を紅葉が突付きながら黒樹に振り返る。黒樹は平然と答えた。
「果たしてそうかな?馬は二匹、騎手は三人。十分ではないかね?現に若葉は双樹を乗せてここまで帰って来たではないか」
「そ、それは…そうだけど…黒樹さんの意地悪っ!」
 若葉がぷいと膨らむのを見て、黒樹は視線を紅葉に移した。紅葉は黒樹の望む答えを用意していた。
「この紅葉ちゃんに不可能はないのダ★お馬の一匹や二匹、かかってコーぃっ★」
 若葉に当てつけるかのような、満面の笑みである。黒樹は静かに、よろしい、と言って、双樹の括り付けられた馬に飛び乗った。
「出発だ」
「おウマちゃん、アタシを振り落としたらメッ!だからネ!ヨロシクね、chu★」
 紅葉はウマの顔を抱え込む様に囁き、ウマの鼻面にキスをした。

 颯爽と岩石の転がる荒野をかける黒樹の後を、紅葉と若葉の二人が追っていた。紅葉の手綱捌きはなかなかのもので、風の様に岩間をすり抜ける黒樹にも引けを取らないほどであった。括り付けられたままの双樹は時折呻き声を上げたが、正気に戻らず、おとなしいものだった。反対に騒がしいのは若葉だった。岩場を駆け抜ける馬上から振落とされないように、小柄な紅葉にしがみ付いているのがやっとで、口が開けば悲鳴が上がるのだった。
 『山羊追の谷』を抜け、『ベガ』の草原地帯に入ると、ロディオのような激しい揺れは落ち着き、若葉もゆっくり呼吸を整えることが出来た。
「肩で息なんてしちゃって、ヤだなぅ★年は取りたくないワぁ〜♪」
 肩越しに若葉を見ながら紅葉は言った。確かに肩で息をしていたが、すでに大分治まったようで、紅葉に食って掛かるだけの気力は取り戻していた。
「あんたがあんな走り方するからでしょぉ!!なんでもかんでも、年のせいにしないでっ!」
 殴り掛かろうと片手を離した若葉に気づき、紅葉はすぐさま馬の腹を蹴る。すると、次の瞬間には若葉は必死に紅葉にしがみ付くしかないのだった。若葉は悔しそうに歯軋りして、紅葉のウエストを締め上げた。
 冬の凍りつくような風の中、草原地帯がしばらく続き、紅葉と若葉も落ち着いたころ、紅葉が唐突に訊ねた。
「ねぇ、若P〜。何で、黒ちゃんのこと好きなのぅ?」
「えッ?」
 若葉は素っ頓狂な声を上げ、赤面した。
「な、何で急にそんなこと??」
 明らかに動揺している若葉の言葉に、なんとなくぅ〜♪と答える紅葉。
「なんていうのかな…一目惚れ…じゃあないのよ。白馬の王子様ッてほど夢見てはいないけど…ん〜、何か、一緒にいて懐かしいって言うか、すごく落ち着く感じなのよ。まあ、あんたくらいの年齢じゃ、分からない感覚かもしれないわね」
  あははぁ〜…わかりたくないワぁ。ダマされてんだモン…。白馬の王子様〜って言ってくれた方が楽だったなぅ…
 紅葉は思いながらも、口ではいつもの調子を崩さなかった。
「確かに、アタシには年増の感覚なんてわか〜んな〜い★」
 若葉の返事よりも先に、紅葉のウエストが締まる。紅葉は、ウエストをぎりぎり締め付ける腕をぺしぺし叩きながら続けた。
「だ〜っあって〜!双樹みたいな幼馴染がいるのに、何で黒ちゃんなのぉ〜!双ちゃん、チョーいーヒトぢゃん!」
「……ぇ?」
 若葉は一瞬沈黙した。二等の馬が草原を駆け抜ける蹄の音だけが繰返し聞こえていた。
 若葉の思考は錯綜していた。
 幼き記憶の中の双樹…アヅマに対して、いつも付きまとっていた特別な感情。しかし、その感情が何であったのかが、明確に思い出せない。笑顔で並ぶ幼き日の二人の姿から、容易に想像できるたった一つの感情。その感情を拒む何かの力を感じていた。そして、その感情はその力によってかき消されてしまうのだった。
 ほんの一瞬の沈黙の後、若葉は紅葉に質問を突き返した。
「ちょっとぉ、双樹のことを持ち出して、黒樹さんを独り占めする気ね?!それより、何であんたはあんなに黒樹さんに馴れ馴れしいのよっ!」
  あわわ、そうくるのッ?!
「だってぇ、運命の人だモン★」すぐさま若葉はウエストを締め付ける。「…んに゛ゃあ!」

 草原地帯を抜け、森に入って一泊すると、翌日は首都へと続く森林を避けて、街道をひた走った。双樹は森の泉で冷水の洗礼を受け、何とか体調を持ち直していた。
 『ベガ』の街道を走り始めて二日目の昼、ようやく国境の町が姿を現した。この三日の間は走り詰めだったこともあり、この街ではふかふかの布団で休むことになった。元はと言えば紅葉のわがままで決まった宿泊だったが、意外なことに黒樹も反対しなかった。
 早速、二人部屋を二つを取ると、男組の部屋に召集された。
 男組の部屋は部屋の西の中央に扉があり、挟むように部屋の両奥にベッドが並んでいた。部屋の左、北側の奥には大き目の両開きの窓があり、外気との温度差で曇っていた。黒樹は左奥の窓際のベッドに腰を降ろし、女性二人を迎え入れた。双樹は反対側のベッドに腰を降ろしていた。若葉に隙を与える間もなく紅葉は黒樹の隣に座り、この場は大人しく若葉は双樹の隣に腰を下ろした。
 真白に曇った窓の奥の空は、どんよりとした雲が空を制圧していた。
「暫くこの街で潜伏する」
 黒樹の第一声はそれだった。不思議そうな顔の三人を前に黒樹は続けた。
「この街の北部にベガの兵舎がある。アンタレスに備えた、最前線の駐屯軍だ。兵の数は二百、約二週間後の休戦を受けてずいぶんと士気が下がっている」
「ようやく嫌だった戦争が終わると思ってるんだから…分けもないね」
 双樹が言うと、若葉が続ける。
「そうよね、私たちだって…ベガの人たちが嫌いなわけじゃないもの」
 言って、若葉は髪を掻き上げた。一息ついて、若葉が続ける。
「第一、私たちには、何で戦争してるかなんて、学校で習わなければ分からないほど昔のことじゃない?」
 若葉の問いに頷く双樹と、きょとんとしている紅葉。紅葉は、そなの?と黒樹に聞くと、まあな、と短く答えた。双樹は力ない声で続けた。
「でも…その戦争がまだ続くんだよなぁ〜…それも、グリムスのドワーフがまとめてくれそうだったのに…ベガの連中はなに考えてるんだか…」
 黒樹の無表情が微かに、本当に微かに笑みを浮かべたように見えた。それに気づいたのは、話も二の次に、黒樹だけを見つめていた紅葉くらいなものだろう。黒樹がいつもの無表情で口を開く。
「お喋りはそこまでだ。話を本題に戻そう」三人が黒樹に注目する。「これからこの街に潜伏して、グリムスでの会談を待つことにする。十と二日…だな。グリムスでの会談に合わせて、北の兵舎を攻める」
「おーっ★」
 元気いっぱいにコブシを突き上げる紅葉だったが、二人の人間は驚愕の表情だった。ようやく双樹が声を絞り出す。
「せ、攻めるって…兵士が二百人から居るってのに…正気ですか?!」
 驚きを隠せない人間二人に、黒樹は冷ややかに言い返した。
「お前らが取り付けてきたこの書状を良く見てみろ。この部分だ」
 開いて突き出されたグリムス王の書状の、黒樹が指差す部分には、会談の予定日にベガの国境にある、備蓄庫に火を放つことが条件だと記してあった。
「これから十と二日、休戦に向けて兵士たちも徐々に帰郷し、傭兵達は解雇されるだろう。それに休戦会談に参上する為に、十日後にはベガ王がこの街を通過する。その際に兵舎に立ち寄ることが有れば、兵士たちの戦意は一変に削がれる事だろう」
 黒樹は視線を三人に移す。そして、最後に視線を止まった双樹が、怯えを打消したいかのように身を乗り出した。
「それで…最終的にはどれくらいを相手にすることになりそうなんですか?」
 黒樹は双樹から視線を外し、窓の向こうの兵舎を見つめながら、さあ、と短く答えた。そして、窓を片側だけ開ける。吹き込んで来た冷風に、黒樹の黒髪が揺れた。突然の冷風に紅葉は驚き、黒樹に抱きつく。瞬時に反応する若葉。しかし、若葉が口を開く前に、行動を起こす前に黒樹が続けた。
「…最小五十、もしかしたら減らぬかも知れん。私も未来が見える訳ではないからな。攻め込んだところで勝ち目が有るのかも分からん。但し、結果的に思い通りに事が運ばれることは約束されている。うまく逃げ回って、中庭の備蓄庫に火を放てばそれでもいいのだ」
 黒樹は三人を見回した。黒樹の視線が及ぶ前に口を開いたのは双樹だった。
「ちょっと待ってくれよ!俺達四人で攻め込むのか?そんな、無茶…ぅゎ!」
 双樹が言い終える前に、若葉が身を乗り出し、口を挟んだ。
「黒樹さん、私は武器なんて触った事なんてない…」
 若葉が言い終わる前に、黒樹は自分の荷物からクロスボウを突き出した。突然のことに思わず若葉は両手で受け取った。黒樹が静かな、少しキツイ口調で言った。
「これで武器に触った事が無いという言い訳は使えないな。ただ引金を引けばいい。矢の番え方は双樹でも分かるな?」
 双樹は、はあ、と気の抜けた返事をし、思い出したように黒樹に言った。
「あ!お、俺だってたった二年の兵役で訓練しただけで、実戦経験なんかないんですよ!」
「誰だって初めてはあるさ。無い経験なら、すれば良い。紅葉はどうだ?」
 三人の視線が紅葉に集まる。一瞬の沈黙の後、紅葉はいつもの調子で言うのだった。
「もち★この紅葉ちゃんに不可能はないので〜ッス★」
  あわわ〜、言っちゃった〜。これで後には引けないわ〜。…まあ、なんとかなるでしょ★

 紅葉の一言で、黒樹の潜伏計画は決定され、十二日間の潜伏生活が始まった。
 潜伏している間、黒樹と二人の人間は郊外の森に通ってその腕に磨きをかけ、紅葉は宿屋で武器の製造に勤しんでいた。
「瞬炎ちゃん、ヨロシクね★」
 紅葉は両手で交互の空に左右の半円を描き、その中央から七色の炎の玉を取り出した。
「えっと〜、鎧二つと…盾一枚、あと矢がいっぱいかぅ。練習もかねて〜、矢ッ★矢ッ★矢〜ッ★」
 ばらばらと瞬炎の下に矢が落ち、すべて微妙に形が変わっていった。
「あちゃ〜…なんか、ばらっばら。ま、いっか〜★矢ッ★矢ッ★矢〜ッ★」
 潜伏から四日目の夜。『アンタレス』に小さき使者の姿があった。
「我らはグリムスより参った。速やかにアンタレス王に謁見を許されたし!」
 グリムスからの使者は、要求通り速やかに謁見室に通された。程なく王と四名の参謀が謁見の間に現れた。
「こんな夜更けに火急の要件とは何事ですかな?もしや、ベガに不穏な動きでも?」
 探るような王の言葉に、グリムスの使者は密命である事を告げ、人払いを頼んだ。王一人が部屋に残ると、懐から書状を取り出し、差し出した。
「我らが王よりの書状です」
 書状の中身はこうだった。

『親愛なる我らが友アンタレス王よ。
 此度の事、貴殿の心中お察し致す。我らドワーフは正義を友とし、悪しき者を潰える者と心得ておる。
 真の正義は貴殿に有り、此度の助力する事を決断した。決戦は休戦会談の日とする。
 正義を示す為、貴軍の精鋭と肩を並べて進軍しようではないか。
 幸い、悪しきベガはこの事を知らず、我ら正義の鉄槌を見事に浴びせる事が出来よう。
 貴殿の正義の証を合図に、正義を我らの手に治めよう。     グリムス王』

「貴君の密命、しかと賜りました。しかし、この一件については私だけでは判断しかねる。いま少し、返答に時間を下され」 
 そう言って王は使者を別室に下げると、参謀たちを招き入れ、グリムス王からの密書を開き、早速書状についての見解を求めた。
 三人の参謀たちの意見は、休戦前の盟約が生かされたのだと理解し、王に至急の招集をかける提言をした。しかし、ただ一人だけは、しっくりと来ない物を感じていた。四人の中で一番若い青年参謀だった。
「この時期になって、グリムスが掌を返すとはどういうことでしょうか?確かに、グリムスが我が方に付き、ベガに敵対すると言うのは喜ぶべき事態ですが…正義を重んじ、不正を嫌う彼らがこの様な謀など…」
 素直に喜べない引掛りがあるにしても、言葉に詰まってしまう参謀の存在は、その価値は無いに等しい。
「状況と思惑、理想を勘定して推測を言葉に紡ぐのか参謀の役目。その言葉を紡ぐことが出来ぬのでは、異論無しと取られても仕方ありませぬな」
 王座の右手に立つ、参謀の中で最老齢の男が言った。王は眉間に皺を寄せつつ、老齢の筆頭参謀に従い決断を下した。
「うむ。確かにこの急展開は驚愕に値するが、我が国益を説けばベガを叩くことが最優先では有る。…グリムスが乗気な今が、ベガを叩く最大の好機であることは…否めまい」
 王は仕方無しと言う表情で青年参謀に眼をやると、青年参謀は無言でうつむくという返事しか出来なかった。その様子を見て、王は続けた。
「やむを得まい…いや、時が来たのだ。兵を召集せい。明朝の夜明けと共に出発する」
 王の言葉を半ば遮るように、青年参謀が提言した。
「陛下、一つ提案がございます。せめて、戦闘の際にはグリムスと肩を並べる事だけはお避け下さい。以前グリムスは、アンタレスとベガの戦力は拮抗していると申しておりました。人間に無干渉と言う彼らとて、永きに渡る戦乱を良くは思っては居ないはず。この度のみならず、これまでも彼らグリムスを取込む為に、我らは先祖代々、何度も交渉を繰り返されたはず!」
 参謀の一人が書状の一文を指差した。
「このベガはまだ知らないと言う一文、グリムスが告げたかどうかと言うことであって、我らが確認する術はございません。…グリムスは我ら人間同士を戦わせ、疲弊したところを共に討つ気ではないでしょうか?」
 筆頭参謀は彼の言葉を何度も租借するように、彼の言葉から何かを導き出すように、もごもごと繰り返した。そして、何かが定まったのか、ぴたりともごもごが止むと、口を開いた。
「グリムスを信用せぬ…か。面白い発想じゃな。同じ話をベガに持掛け、両軍の兵が一堂に会したところで、一網打尽にするつもりか。グリムスの山羊追の谷ならば、奴らお得意の岩石がごろごろしているから、罠をこさえるのも分けはなかろう」
 青年参謀が口を挟む様に、言葉を引き継いだ。
「万が一、ベガと対峙する事になっても良いように、グリムスを先陣に立て、我らは投射兵器を揃えて、後方からの援護攻撃をすると言う形を取りましょう。まず、ベガに早馬を出して、この話を伝えましょう」
 青年参謀の一言に、王たちは驚きを露わにせずにはいられなかった。
「な、なな、なんと?」
 驚愕の中で、筆頭参謀だけはその真意を理解しているようだった。青年参謀が続ける。
「グリムスからのこの書状をベガに明かすのです。そして、ベガにも同じ申出があれば戦場で合間見えたときに、グリムスを挟撃にする事が出来ます」
 王は驚きを隠せないようで、狼狽気味に言った。
「なんと言うことだ、ベガと手を組むと言うのか?しかも、我らが敵はグリムスではなく、ベガだと言うことを忘れたか!」
「陛下…御静まりください」
 筆頭参謀が静かに割って入る。
「我が国家の最大の敵はベガにございます。しかし、グリムスが今まさに牙を向こうとしているのであれば、これもまた敵でございます。…幸い、休戦と言う歴史の不名誉だけは避けられたのです。最悪は国境での三つ巴を覚悟せねばなりませんが、策を巡らせねば勝利は有らず。勝利が無ければ我が国の安泰もございますまい」
 老齢の筆頭参謀は、結論はすでに出た、と言わんばかりに満足げであった。そして、王を含め、満場一致でこの案が採択された。
 王はグリムスの使者を謁見室へ呼び、軍の派遣を承諾し、会談予定日の前日に、アンタレスの国境の街付近で合流することを伝え、その旨を記した書状を手渡した。グリムスの使者は書状を受取り、深々と頭を下げて立去った。それを見届けて、城一番の早馬をベガに放ち、国内の各市街の兵舎にも出兵の早馬が飛んだ。
 翌朝には城の五千人の軍が国境に向けて出発した。国境に到着する頃には、国内の兵力が総決し、二万を超える算段であった。

 一方、『ベガ』では王と参謀が一人、それと僅か十人ほどの衛兵の一団がグリムスに向けて出発した。絢爛豪華な馬車と、王や参謀の出で立ちは、これから訪れようとしている休戦の喜びを露わにしていた。衛兵の装備も装飾要素が強く、とてもではないが実践的とは言い難い物であった。誰の目から見ても、戦争は過去のもので、歴史を飾る一幕だとの印象を与える物であった。そう言った意味では、国民に戦争の終わりを印象付けさせるには充分すぎるほどの演出であった。
 リズムよく響く蹄の音、民衆の歓声の中でベガ王は参謀に言った。
「私はこの休戦を終わりだとは思っては居ない。終戦への始まりだと思っているよ。我ら両国は余りにも戦い慣れ、そして、戦い疲れている事に慣れてしまった。グリムスが与えてくれたこのささやかな平和を、未来永劫…いいや、我らの子孫が剣を握らずに暮らせる生活へと繋げようじゃないか」

 猜疑心に苛まれつつも、戦闘意欲を募らせるアンタレス。
 休戦を終戦に結び付けようと、平和への希望を募らせるベガ。
 黒樹の謀略に陥ったとも気づかずに、ベガへの戦意を募らせるグリムス。
 休戦会談の一週間前のことである。


 アンタレスの不穏な動きをいち早く察知した黒樹は、ベガ国境付近の森に隠れていた。日はまだ低く、茂る葉の中、枝の上から街道を見下ろす黒樹の姿を見つけることは容易ではなかった。
「駒は駒のまま、打手のままに動いてくれれば良い。勝手に動いてもらっては…困るのだよ」
 呟く黒樹の下の街道を一頭の早馬が走り抜けて行った。黒樹が弓をきりりとを引いた次の瞬間、早馬の背後から心臓の位置に矢が突き刺さっていた。早馬の男はそのまま一度前につんのめり、体の下を走り抜ける馬に振り落とされ、仰向けに地面に叩き付けられた。
 黒樹は地面に倒れた男の側に降り立つと、男の懐から書状を抜き取り、中身を確認する。
「……。面白い策を講じた様だがな、この書状は葬らせてもらおう」
 言って黒樹が手を離すと、書状はたちまち炎に包まれ、地面に落ちることなく燃え尽きた。

 アンタレス軍が国境に終結したのは、予定通りの会談前日であった。五千で首都を出た軍勢は、国境までの道のりで合流を繰返し、予定の二万を上回り、二万五千の大軍勢とその姿を変えていた。当初の計画通り、大小様々な投射兵器を並べ、大部分の兵員が前線に出られないことをアピールしていた。
 グリムスの軍勢からは、五千人が合流に駆けつけた。五千を率いる軍団長の話では、一万人規模の軍団が『黒の森』の絶壁の麓で待機し、洞窟内には五千人規模の親衛隊が配備されているとの事だった。
 一方、グリムスへ向かうベガ王の一団は、無防備と言ってもいい装備で、ベガの国境の街へと到着していた。ここでも民衆は休戦に歓喜し、王を称えた。そして、その民衆の中には黒髪の麗人と、彼にぴたりと寄添うフードを被ったダッフルコートの少女の姿があった。
 黒髪の麗人、黒樹が声を殺して言う。
「ようやく到着したか。浮かれ気分で…いい気な物だな」
「しょーがないジャン、本人知らないんだしぃ〜★」
 フードの奥から紅葉が見上げている。黒樹は静かに目を伏せると、暫くしてふっと軽く吹いた。そうして身を翻し、人ごみから抜け出した。
「…兵舎に行くようなら、またお会いしましょうベガ王陛下殿…」
 二人は宿の部屋に戻ると、兵舎の見える黒樹の部屋に入った。部屋には、矢が一杯に納まった矢筒が幾つも置かれ、鎖が幾重にもぶら下がる馬具が二つ並べてあった。この十日間で紅葉が創った物達である。それらを見回して黒樹は薄く微笑む。
「後は二人の鎧を作るだけか。二日あれば足りるな」
 もちろん★と紅葉はガッツポーズで答えた。
「でもさ〜、たくさんの兵隊さんと戦うよりも、王様と直接戦っちゃった方が楽くナイ?警備もすっごく手薄そうだし〜」
 紅葉の素朴な疑問であったが、以外に的を得ていた。黒樹は少し考えてから答えた。
「確かに…あれほど無防備とは思っていなかった。しかし、グリムスとの盟約もあることだし、象徴には目立つ最期を遂げてもらわんとな。グリムス王の手でベガ王が討たれたとあれば、ベガの国民とて立ち上がらずにはおれまいて」
「そっか。ドワーフさんとの約束なんてあったね〜」
 紅葉はぽふっとベッドに身を投げ出す。ベッドの上でシーツを巻き込んで身を屈める姿は、まさしく猫のそれだった。
「ねぇ〜、黒ちゃ〜ん…この戦争起こったら…どれくらいの人が死ぬのかな〜ぅ?」
 身を屈め、窓の外を見つめたまま紅葉が呟いた。
 黒樹はベッドの前に立ち尽くしたまま、無言で紅葉の視線の先を見やった。そして、静かに言った。
「それを聞いてどうする?」
 え?と紅葉は黒樹に視線を移した。黒樹は窓の向こうを見つめたまま繰返した。
「それを聞いてどうする?」
「ど、どうするって…ど〜すんだろ〜?」
 紅葉は無言の圧力を感じていた。まるで、周囲の空気の全てに刺があるかのように、身動き一つ取れなかった。
「聖界と…魔界に挟まれたこの世界を…境界と言うらしい…。そしてこの境界には聖界、魔界の影響をつぶさに感じ取り、それぞれの力をコントロールできる…そんな命が配置された。そして神がこの境界の命に与えたのは…調和…」
 黒樹は微動だにせず続ける。
「しかし、調和と裏腹にこの境界を覆ったのは混沌…。皮肉なようだが、この世界は調和ではなく混沌に満ちている」
 言う黒樹を遮るように紅葉が口を挟む。
「でもさ〜あ、コントンッてゴチャッとしてることでしょ?なんでそれじゃイケナイのかなぁ?」
「我ら魔族からすれば、それでも構わんのさ」黒樹は軽く言い、続ける。「調和と混沌…いずれにしてもニ界からの影響を受けているのならそれでよかったのだ。しかし、人間は増えすぎた。己が欲望のためにな。その為に、境界に存在する他種族との調和が取れなくなった。それは言語を持つ高等生物だけでなく、世界を司る動植物に至るまで、全てにおいて人間が頂点に立っているものと勘違いしている。そう…まるで、人間こそが全てを統べるべき存在であるかのようにな。その自己中心的な振る舞いが…目に余るのだ」
 黒樹は窓に手を当て、掌で外気の低さを感じる。
「…そんな人間から調和を奪い、互いの命を奪い去らせることが分神の望み…」
「でもさぁ〜」シーツを巻き込むように寝返りをうつ紅葉。「それって、人間にコントンと戦争と勝利と敗北と死を与えることにはならないの?」無垢な瞳で黒樹を見つめる。「奪う、奪うって、奪うのと同じくらい、与えちゃってるジャン♪」  黒樹は紅葉を見据えていたが、プっと吹きだした。
「…面白いことを言う。本当に不思議な娘だ」
 その瞬間、黒樹の瞳が優しさを帯びたように見えた。

 その頃、郊外の森では二人の人間が鍛錬に精を出していた。そして、そんな二人の視界をベガ王の一行が通りかかった。飛びかかろうとした双樹を、とっさに若葉が木の陰に押し込んだ。突然身を隠したせいか、双樹は無意識に声を潜めて言った。
「何で止めるんだよ!あんなに護衛が少ないんだぞ?大勢と戦うより、今のうちに仕留めちまった方が良いに決まってる!」
 興奮状態の双樹は、声を潜めていたが、語彙がきつくなっていた。若葉は冷静にベガ王の一行を見据えながら言った。
「あれだけの護衛でここまで来たってことは、黒樹さんが見送ったってことよ?きっと何か考えがあるに決まってるわ!それに、黒樹さんの作戦ではまだ仕掛けるタイミングじゃないわ」
 双樹はむっとしたまま、無防備なベガ王の一行が通り過ぎて行くのを、木の陰から見送った。
 ベガ王の一行が通り過ぎ、姿が見えなくなると双樹は足を投げ出してその場に寝転がった。若葉もその横に腰を下ろす。
「双樹の気がはやるのも分かるけど、今はまだその時じゃないのよ。その時になったら、黒樹さんがちゃんと…」
「また黒樹かよ!!」
 言いかけた若葉の言葉を双樹が遮った。
 上半身を起こし、若葉と正面から向き合って双樹は続けた。
「黒樹!黒樹!!黒樹!!!あいつが何だって言うんだよ!俺は今までずっと、お前だけを見てきた!お前に危険な思いなんてさせたく無いんだよ!」
 双樹、いやアヅキはマナホの肩をぐっと両手でつかんだ。
「マナホ…俺はお前が好きだ…だから…」
 その一瞬、マナホの心が大きく揺らいだ。何か、すごく暖かくて、懐かしくて、待ち遠しかった嬉しい感覚が通り過ぎた。次の瞬間には冷めた若葉がアヅキの両手を払いのけていた。
「そう言うの、やめてくれないかな?幼馴染だから簡単に彼女になるとでも思ってるの?」
 アヅキはマナホの瞳に宿った一瞬を見逃してはいなかったが、冷めた若葉の言葉に唖然とするしかなかった。
「あなたはそうかもしれないけど、私は今まであなただけじゃなくて、色んな男の子を、男性を見てきたの。それで私は黒樹さんが好きなの。あなたみたいにいつまでも手近で済まそうなんて、子供じゃないのよ!」
 口から出る言葉と裏腹にマナホは戸惑っていた。しかし、アヅキはそれに気付くことも出来ない位に打ちひしがれていた。マナホはそんなアヅキを見ていられなかった。
「もう戻るわ」
 そう言い残してマナホ…若葉はその場を去った。

 運命の日。歴史に大きな出来事を刻む日。
 その日の午前中早くにベガ王の一行はグリムスへと迎え入れられた。ベガ王は謁見の間へ通され、軽く会話を交わすと、アンタレス王の到着まで控えの間へと通された。
「とうとう、とうとうこの日が来たのだな。永きの因縁を断ち切る戦いはここから始まるのだな」
 ベガ王は外套を脱ぎながら呟く。それに参謀が賛同し、言葉を付け足す。
「剣の代わりに言葉を交え、悲劇の代わりに喜びを与え合う交渉の始まりで御座います」

 時を同じくして、ベガの国境の町。北部の兵舎には、相変わらず五十余名の警護兵が駐留していた。幸い、休戦間近とあって、兵士達は胸当てや、すね当てと軽装であった。そして、その兵舎のすぐ側まで黒の一団は接近していた。張り詰めた空気が四人を包んでいた。
 高い枝に登り、木の幹に寄りかかるようにして兵舎を伺う黒樹。その足元では、自作の武器の魔爪を装備した紅葉が、初の実践に緊張と好奇心を抑えられないようだった。
「うわ〜っ!実践なんて初めてだよぉ♪ワクワクするねっ!上手くできるかなぁ?!」
 とても緊張感のなさそうな紅葉に、若葉はイライラした感じで声をかけた。
「…こんな時くらい、大人しく出来ないの?」
 紅葉は若葉にあかんベーをすると、黒樹を取り巻く空気が変わったことに気付いた。その場を更なる緊張が包んだ。
 黒樹は弓の弦をキリキリと引いて、一本の矢を番えた。矢の先端には、幾重もの布が巻きつけてあり、黒樹が真紅の瞳をカッと見開くと、たちまち炎が灯った。
「躊躇はするな。死ぬ気でかかれ」
 黒樹の一言の後、炎が空に一本の弧を描いた。

 アンタレス、国境付近。
 二万五千と膨れ上がったアンタレスの軍勢は、国境付近に駐留したまま、グリムスからの鬨の声があがるのを待ちわびていた。
「思いの外…待たされておりますな…」
 野営の陣中の簡素な椅子に腰掛けたまま筆頭参謀がぼやく。他の参謀たちも、言葉無く頷いている。青年参謀は立ち上がり、落ち着かない感じで歩き回る。
「…すでに今日は協定締結の当日…いったいグリムス王は何を考えているのだ?それ以前に、ベガに送った早馬はどうなっているんだ?…いっこうに返答がないではないか!」
 ベガに送った早馬はグリムスに向かうベガ王に接触し、グリムス挟撃の書簡を届けているはずであったが、一向に返事が戻って来ない事が腑に落ちないのだった。訳もない。その早馬は、すでに黒樹の手にかかってしまったのだから。
「このまま待機を強いられることはまず有り得まい」筆頭参謀の老人は続ける。「動くのがグリムスであれ、ベガであれ、今日という分岐点はすでに変えられぬ所まで来てしまっておる。ここはじっと待つしかなかろう。…そう、せめてグリムスとベガが組まぬことを祈るだけじゃ…」
 筆頭参謀の老人は、静かに手を組み合わせ、額に当てた。

 グリムス、王の間。
 薄暗い洞窟の中では比較的明るい王の間には、完全武装の親衛隊たちが詰めていた。そして部屋の中央、奥の玉座にはグリムスのドワーフ王が黄金に、宝石を散りばめた鎧に身を包み、どっかと腰を下ろしていた。一つの岩から彫り出した玉座は、ドワーフでない限り、とても座りごこちの良いものではないだろう。
「本当にアンタレスの若者らの言葉は果たされるのだろうか?」
 ポツリと王がこぼした、まさにその時であった。見張りのドワーフがどたどたと王の間に駆け込んで来たのだ。見張りのドワーフ兵は息を整えもせず、走ってきた勢いのままひざまづこうとしたため、前のめりになっていた。
「ほっ、報告します!」見張りの言葉に、部屋中の全員が注目する。「ベガ国境の街、北の兵舎より黒煙が上がりました!アンタレスの若者の合図と思われますが…」
 周囲はざわめいた。そして、王の一言を待った。グリムスのドワーフ王が口を開いた。
「時は来た…アンタレス国境の部隊に早馬を出せ。ベガ王の首は…このワシが取る」
 グリムス王は華美なまでの宝飾の戦斧を手に取ると、鎧もろともマントで覆い隠し、数十名の親衛隊を従え手控えの間へと向かった。親衛隊の一人が控えの間の扉を叩く。するとベガの衛兵が戸を開け、グリムス王を招き入れた。ようやくアンタレス王が到着したのかとばかりにベガ王は満面の笑顔で迎え入れた。
「おお、親愛なるグリムス王よ。アンタレスの王は参られたかな?此度の儀、まこと感謝しておりますよ」
 言いながらベガ王がグリムス王の手を取ろうと身を屈めた、その時だった。
 グリムス王のマントから、ベガ王の顔をめがけ光が流れた。
 それは一瞬の出来事だった。
 重く、鈍い音がした。
 次の瞬間にはベガの一行はクロスボウの餌食となっていた。参謀も、頭の取れたベガ王も例外ではなく、針山のようになっていた。
「こ…国王……グ…り……す…な…ぜ……」
 言葉にならない言葉を搾り出すようにして、ベガの参謀は崩れ落ちた。
 グリムス王は、あるべき場所から飛び跳ねたベガ王の髪を掴むと高く掲げた。それと分からないくらいに変形したそれは、赤い涙を流しているようにも見えた。
「善意の我らを欺こうとした悪しきベガ王の首、ここに討ち取ったり!全軍、進撃を開始させよ!!」
 伝令の兵が数人、どたどたと散っていく。控えの間では、親衛隊がそれぞれにとどめを刺しに回っていた。
 作戦は成功し、憎むべきベガ王を殺害したのに、何故かグリムス王の心は晴れやかではなかった。
  …もう後には引けぬな…

 ベガの国境の街、北の兵舎では未だ戦闘が継続していた。
 戦況は黒樹の強力な魔法と、双樹と若葉の健闘、紅葉の撹乱能力のおかげで、有利とは行かないまでも、不利ではなかった。しかし、燃え盛る備蓄庫を背に、取り囲まれている現状は、あまり良い状況とはいえなかった。
「くっ!!せっかく火を放っても、ここに張り付いたままじゃ…」
 目前のベガ兵を見据えたまま双樹がこぼす。双樹の隣では若葉が連装クロスボウを構えて睨みを効かせていた。
「男でしょ!弱音ははかない!…そこっ!」
 激しく空を切る音とともに三本の矢が一斉に兵士を捕らえる。一本は喉元に、他の二本はわき腹とみぞおちに突き刺さった。
「ふぅ、もう半分くらい減ったかしら?」
 次の矢を番えながら若葉が言う。その若葉をかばいながら、兵士の猛攻を双樹が受け流し、斬り付ける。
「っく!さぁね、全滅させてないことだけは確かだ…ぜ!!」
 言いながら双樹は兵士の攻撃を受け止めた。双樹と兵士が鍔迫り合いをしている所へ、若葉が双樹の脇からクロスボウを覗かせた。
「卑怯なのは分かってるから…ごめんね!!」
 若葉は三連装のクロスボウを、兵士の腹部に押し付けたまま発射した。
 体をくの字にして兵士が背後に押し飛ばされる。それと入れ代わりに、双樹の体に数本の矢が突き立った。
「ぅぐぁ…っ…また、新手かよ…」
 見ると、新たに弓兵が増えていた。万事休すとはこういう事を言うのだろう、と若葉の脳裏によぎった。
「ぁの、サ…」新たな敵をきつく睨みつけたまま、双樹が言った。「若葉が黒樹のこと…好きなら、俺…認めるから」
 突然のことに若葉は耳を疑ったが、冷静を失ってはいなかった。
「馬鹿なこと言ってないで!今それどころじゃ…」
 若葉の言葉をかき消すように、双樹の剣が矢を弾く、高い金属音が響く。にじり寄る兵士達を見据えたまま、双樹が言う。
「馬鹿も馬鹿なりに考えてるのさ、大好きなお前のことをね。絶対…黒樹と一緒にさせてやる…それまで、死ねない!!」
 双樹は大地を蹴り、矢を放つ弓兵隊に特攻をかけた。
 空を切る矢。
 矢が風のように双樹に吹き付け、頬を、腕を、体中を掠めていく。
 双樹は風を走る矢の中をすり抜けて行く。
 矢を放ったままの姿勢の弓兵の一人に、双樹の一撃が振り下ろされた。獣の唸り声にも似た双樹の叫びが、漂う空気に彩りを与える。飛び散る水玉の真紅…。
 どれだけの時間が過ぎたのか、どれだけ斬り付けたのか、どれだけ斬り倒したのか…。それを把握できているものはその場にはいなかった。永遠の様に長い一瞬に、数え切れないほど斬りつけた双樹が動きを止めた時、そこには修羅の足跡だけが残されていた。
「……ァ……」
 若葉の目に映ったのは、全身に矢を突き立てて、立ちすくむ双樹の姿だった。何の皮肉か、全身に突き刺さった矢に動きを封じられたかのように、けれど矢に支えられたその姿は、勇敢に剣を振り上げたままの姿で固定されていた。双樹の周りには、他に立っている者の姿はなかった。
 先ほどまでとは打って変わって静寂に包まれていた。遠くで聞こえる幾つかの音は、静寂の前にかき消されていた。
 若葉…いや、マナホは何故か震えるヒザで、無理やりに立ち上がった。初めての戦闘、初めて見る人の骸。それは赤黒く、現実味が無かった。その合間を縫うようにして、アヅキの元へと歩み寄る。
「…アヅキ…あづきぃっ!!!」
 マナホは叫び、その場に崩れ落ちた。そして、ようやくながら震えるヒザの意味を知った。目で見るよりも、声をかけるよりも早く、幼馴染の死を体は感じ取っていた。
「…ぃゃ…ぃゃぁあぁぁああ!!!!!」


 その日、アンタレス国境よりアンタレスとグリムスの共同軍、三万の兵が雪崩込み、一夜にしてベガ国境の街を占拠した。アンタレス進軍の報は瞬く間にベガ国内を駆け抜けた。それと同時に、グリムスのドワーフ王が自らベガ王に刃を落とし、アンタレス側に着いたという事実が、多少の尾ひれをつけて伝わった。ベガの王族の元に噂がたどり着いたときには、ドワーフ王が話を持ちかけた事になっており、ベガの同盟国に伝わる頃には、グリムスの山向こうの国が進行を始めたのだと、根も葉もない話になっていた。
 北の兵舎を襲った黒の一団は一人の剣士を失い、戦乱に紛れるようにして、ベガ国境の南に逃れていた。ベガ国境の南、国境の街を見渡せる高台に彼らはいた。
 二頭の馬には黒樹と紅葉が跨り、黒樹の馬には茫然自失といった感じの若葉が乗せられていた。
 黒樹は馬を止めると眼下で繰り広げられている戦況を眺めた。
「…始まったな。これで分神も喜ばれよう」
 いつもの抑揚の無い黒樹の言葉。けれど、少しいつもと違う感じに聞こえた。少し喜びがこもっていたのか、そこまでは聞き取れなかった。
 紅葉が馬を寄せて黒樹の隣に並ぶと突然、若葉は意識を取り戻し、飛び起きた拍子に馬からずり落ちた。若葉はそのままあとずさる様に黒樹と距離を開ける。その間も視線は黒樹から離れることは無かった。
「な、…なんで、…なんでアヅキが死ななければならないの!!」
 涙を湛えて、怯えと怒りとが同居したマナホの瞳。対照的に無感情で、冷ややかな目で見下ろす黒樹。
 黒樹はぽつりと言う。
「男が死んで…術が解けた…か。…まぁいい。すでに目標は達成された」
 冷たく言い放つ黒樹にマナホはクロスボウの引き金を引いた。完璧に黒樹の眉間を捉えていたはずが、黒樹は首を傾けて瞬時にそれを避けた。マナホは次の矢を番えている余裕が無いことに気付き、髪を振り乱しながらクロスボウを黒樹に投げつけるが、当然あたりはしない。それどころか、次の瞬間にはマナホの髪を一筋の風が貫く。見上げると、黒樹は次の矢をすでに引いていた。
「…次は外さん。死にたくなければ、どこにでも失せよ」
 黒樹はマナホを狙ったまま、静かに言った。
 しかし、マナホは黒樹を睨みつけたまま、その場を動こうとしない。
 無言で対峙する二人を、見るに見かねてといった感じで紅葉が割って入った。
「ね〜ぇ、黒ちゃん。確かにもう用済みかもしれないけど、そこまでしなくてもいーじゃん?ありがとー★とかさ、先に言うことがあるんじゃない?」
 黒樹は怪訝そうな顔をしていたが、口元に笑みが宿り、矢を天高く放った。そして、初めて声を出して笑った。
「…ははっ、まったくおかしな娘だな、お前は。魔族に礼儀を求めるなど」
「だって、お願いしたことは叶ったんでしょ?だったら御礼言おうよ。若葉ちゃんは本当に好きだった人を失ったんだから。もうちょっと優しくしてあげてもいいんじゃない?」
 言いながら紅葉…りきゅあはマナホの隣に腰を下ろす。マナホはりきゅあにも気を許す素振りは見せない。けれどりきゅあは笑顔のまま、マナホに語りかけた。
「だから言ったじゃん、本当は彼が好きなんでしょって★そろそろ素直になりナよ、彼は正直な気持ち、態度で示してくれたジャン?」
「…紅葉…あなた…」
 りきゅあはにこっと笑った。
「そうね…何で…素直になれなかったのかしらね…素直になれていれば…こんな気持ちになんて…」
 マナホはうつむき、涙が流れるに任せた。
 りきゅあはそのすぐ隣で、泣き咽ぶ彼女を見ていた。
「私だけ…生き残っちゃったね…アヅキ…どうすればいい……!」
 それは突然舞い戻った。
 うつむき、丸まったマナホの背には、鈍い音と共に一本の矢が深々と突き刺さっていた。りきゅあは反射的に黒樹を見上げた。黒樹が矢を放った形跡は見当たらなかった。しかし、明らかに黒樹がやったのだと、彼の目を見たりきゅあは確信した。確信犯の冷静な目。起こるべきして起こった事実を待っていた目…。黒樹が天に向けて放った矢は、このための矢だったのだ。
「黒ちゃん!なんで…」
 言いかけたりきゅあにマナホが手をかける。振り返ったりきゅあに映ったのは、泣き笑いする、マナホの切なそうな、嬉しそうな顔だった。
「アヅキに…彼に…今なら…まだ、追いつける…かな…?黒樹さ…ぁりが…ぅ…」
「……ダイジョウブ…カレなら…待っててくれるよ…そんなすぐに行かなくッたって…」
 崩れ落ちるマナホの体を支えながら、りきゅあは彼女の終わりを支えることになった。
「…黒ちゃん、ヒドイよぅ…。本当に最後の最後まで利用して、ポイなんだね。アタシも…そうされちゃうノ?」
 りきゅあは完全に力が抜けてぐったりとしたマナホを支えたまま、黒樹を見つめた。黒樹は迷いも無く、躊躇もせずに言った。
「我らが屠すべき対象は、聖族が創りし者。境界に溢れ足る者だ。魔族は対象ではない」
 ちょっと安心し、悪戯っぽくりきゅあは言い返した。
「アタシは魔族半分、人間半分★魔族じゃないヨ★」
「ふっ、稀少な存在なら、なおさら屠す必要はあるまい…」言って黒樹はりきゅあに手を差し伸べた。「黒き森へ行く。我が女王、そして分神の居られる場所だ。お前も来るか?」
 珍しく好意的な黒樹の行動にも、りきゅあのマイペースは変わらない。
「いかな〜い♪」満面の笑顔のりきゅあ。「けど、イッコだけおせーて★」
 りきゅあは満面の笑みで、挿し出された黒樹の手にお手をする。
 なんだ?と黒樹は言い、りきゅあの次の言葉を待った。りきゅあはじらすようにして、黒樹の後ろに飛び乗った。そして、甘えるような口調で言葉を紡いだ。
「あのさー…アタシたちがしたことって…本当にいいことなのかなあ?」
 黒樹は少し考えているようだった。愚問だ、そう切り返されるもんだと思っていたりきゅあは、少し返って来る答えが楽しみになった。黒樹は静かに切り出した。
「…正しくもあり、誤ってもいる」一旦言葉を切り、黒樹は続けた。「異常繁殖し、強大な支配力を持った人間同士がいがみ合い、殺し合い、全ての動植物を含めた境族の手で生態系を回復することが出来れば、それは良い事だ。しかし、当の人間からすればたまったものではないだろうからな」
 ぽかんと見つめるりきゅあに気付き、黒樹は言葉を選ぶようにして、さらに話を進めた。
「りきゅあ、この矢筒を見ろ。今は二十本で一杯になっている」黒樹は矢を全て抜き出した。「この空になった矢筒が、境界の全てだとしよう。そして、この境界に命を与えたのが聖族だ」そう言って、五本の矢をそれぞれは根をむしったり、折ったり、矢じりを取ったりとそれぞれが違くなるようにして矢筒に入れ直した。「この五本の矢は境界に住む境族だ。そして…」そう言って、手を加えていない矢を一本、矢筒に差し入れる。「この矢が人間だ、ここまでは分かるか?」
 りきゅあは頷き、黒樹は話を進める。
「そして、今の境界はこうだ」黒樹は矢筒に残りの十五本の矢を立て続けに差し込んだ。「こうするとどうだ?」
 りきゅあは見たまま、矢筒が一杯★と言った。黒樹は続ける。
「そう、境界は人間で溢れている。そして、この状態では境族は増えることが出来ない。この状態を解消するのが」黒樹は人間とした矢をごっそりと引き抜いた。「我ら魔族に与えられた使命だ」
 りきゅあはごッそりと引き抜かれた矢を見て言った。ふぅん。そして続ける。
「で、この空いた所に人間以外の境族がイロイロ入れば良いナってのが、理想?」
「まあ、そうだな。今までの歴史の中で、人間たちが駆逐し、滅ぼしてきた種族はもう戻りはしないがね」そして、元通りに矢を矢筒に収めて続ける。「…結局、一番勢力のある人間が結局またその穴を埋めてしまう。何とも皮肉だがね。まあ、そう言うことだから一概に良い事かどうか、それは立場によっても変わってくることだと言うことだ。…俺の立場から言わせて貰えば、とても素晴らしい成果が得られたと断言できる」
「仲間が二人も死んでるのに?」
 突っ込んで聞くりきゅあに黒樹は、一言で答えた。
「ああ。人間…だからな」
 それを聞いたりきゅあは、ぽんと馬の背から飛び降りた。そして、くるっと黒樹に向き直る。
「そっか★教えてくれてアリガト★」
 一度言葉を切って、ハニカミ気味に続ける。
「アタシ、ほんとに黒ちゃんのこと好きだったけど、やっぱ一緒にいけないや♪ほら、あたしハーフだし、魔族の誇りみたいの無いし★…二人が死んだこと…なんか、胸に引っ掛かるんだよね★」そっと胸を抑えながら続ける。「悲しい…って言うんだって。魔族には無い感情。でも、アタシにはあるみたい…だから、もっと境界の、人間を見てみたいな♪パパの愛した人間…だから★」
 微笑むりきゅあの頬を一筋の涙が流れた。黒樹は無言でりきゅあに背を向けると、そのままで言った。
「調和と破壊の…狭間の運命を持った娘よ。この境界を知り、人間を知り、そしてその血の価値を知るが良い。魔族であるにも関わらず、境界の…人間の手助けをする者もいると聞く。そして、また逆も然り。境界が混沌に包まれていることが起因になっているのか、境界以外のニ界の均衡が崩れたことが起因かは、我ら生かされている者の知るところではない。…広い視野で…世界を眺めよ」
 思いがけない黒樹の言葉に、りきゅあは困惑気味であった。照れ隠しに、とりあえず笑ってみる。 「にャははぁ〜★ムズカシイ事はわかんない♪けど、また、会いたいね★」
 黒樹は振り返らずに去っていった。りきゅあはマナホの亡骸の前にひざまずくと、そっと胸の上で手を重ねてやった。
「若P…アタシ一人じゃ、彼と一緒のお墓とか作って上げれないケド…ちゃんと…追いついてね★」
 言って立ち上がるりきゅあとすれ違いに、一片の雪が舞い降りていった。雪がマナホの頬に落ちる。雪はすぐに解けて、水滴になった。じわりと広がる。
「ゆ…き…」
 りきゅあは雪の舞い降る空を見上げた。自分の頭上を中心に、放射状に雪が降っているように見えた。雪の流れを逆流して、上昇していく感覚…。

  先生…アタシ…もっと人間のこと、知りたくなっちゃった★
 







■ あとがき ■
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