光が満ち溢れ、闇が蹂躙する世界。 全ての創造主であり、全てを抹消する力を持つ存在がある。神という。 その存在は全てを包括するほど壮大であり、あらゆる隙間に滑り込めるほど微小であるという。 神は天空にあるという光に満ちた世界に、自由に姿を変えることの出来る存在を創り、無限の生命と、己の力のうち創造や発展などの『生』の力を与え、聖界と名づけた。やがて聖界の者達は想像力を膨らませ、各々好みの姿をとっていった。 一方、暗黒の虚無の空が広がる地底にあるという世界には、無数の個体を持つ存在を無数に創り、有限の生命(※1)と、己の力のうち破壊、略奪の『亡』の力を与え、魔界と名づけた。やがて魔界の者達は殺戮と略奪の限りを尽くし、弱肉強食の生態系を作り上げた。(※2) そして、天と地が交差するように、光と闇の微かに触れ合う狭間に、魔界から優れた個体を複製し、わずかひとときの生命(※3)と、己の力うちの『調和』を与え、境界と名づけた。境界には聖界と魔界の全ての要素が、それぞれ半々ずつ与えられた。聖界の光は昼に、魔界の闇は夜になり、想像は誕生、破壊は死になった。やがて境界の者達は己の特性を生かすと同時に、環境に適応するようにその姿を合理化させた。人間タイプは群を抜いた適応力を持ち、その生息範囲を広めていく。(※4) 神はそれ以外にも聖界をモデルに縮小化した妖精界や、境界に生じた万物に意識を与えた精霊界など、無数の世界を設けた。全ての世界は密着しすぎず、離れすぎないように点在し、その存在を随所で確認させた。その中でも一際、境界は他世界との接触が多かった。それというのも、それぞれの世界の者達に与えられた力のうち、境界の『調和』は他世界の影響なくしては成り立たず、聖界と魔界、境界で大きな一括りと神は位置付けた。 聖界の聖族たちは境界に降りては、新たな生命や、様々な恩恵を与えた。対して、魔族は境界で殺戮と、破壊を行った。境界は聖族の創造、魔族の喪失の受け皿となっていたわけである。その歴史の中で境界の人間の存在は大きかった。聖族から受けた恩恵を継続させる工夫を学び、魔族による喪失を退けるようになった。つまり、境界の調和が崩れたのである。それだけでない。人間は”聖界の恩恵は我らのもの”と優越感に浸り、愚かなる驕りの果てに同じ境族の他の生物、植物をもその手で喪失へと導いていった。恩恵の生み出す便利が楽となり、楽が傲慢を呼び、傲慢が欲となり、更なる得を求めさせる事となった。 人間の欲望は尽きることを知らず、聖界からの恩恵を貪り、魔族を退け、強力な魔族に対しては生贄を差し出してまで安寧を守るようになっていた。少ない犠牲で種の繁栄を維持する。人間の思いつく最大の決定であった。もちろんこのやり方に反対、批判的な人間もいたが、賛同する人間たちの方が強く大きな力…政治的権力を握っていた。批判的な人間たちの多くは弾圧され、処罰の対象となった。権力者は、この行為こそが「平和のための調和」なのだ、と触れ込んだ。そこに聖界の、魔界の力がどれだけ作用していたかは今となっては定かではない。結果として荒廃し、魔界に近い形の、はるかに脆弱な調和が境界を保っている。 ――――― 精霊王 ユギウス による創世録 覚書 | ||||||||||
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そんな不安定な調和の中で成り立っている世界で一人の子供が産まれた。 これから綴られるのは、魔界の生贄案内役と境界からの生贄の間に生まれた少女、りきゅあの冒険譚の数々である。
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